忘れえぬ人たち

いつぞや、わたしは平壌でカストロ同志と会ったさい、抗日革命時期の闘争経験について長時間話したことがある。そのときカストロ同志は、わたしに多くの質問をしたが、そこには武装闘争で食糧問題をいかに解決したかというものもあった。
わたしは、敵の食料を奪うのも一つの方法だったが、人民から不断に供給されたと答えた。
青年学生運動と地下活動をしていたときも、人民はわれわれに食事と宿所を提供してくれた。
上海臨時政府や正義府、新民府、参議府などの独立軍団体はそれぞれ法をつくって同胞から金を募り軍資金を集めたが、われわれはそういうふうにはしなかった。革命活動に金が必要なときもあったが、われわれは税金を徴収するなどの法を制定することはできなかった。なんらかの法や規定で人民を縛りつけ、帳簿を持ち歩き、戸別に金額を割り当てて取り立てるのは、われわれの理念にあわなかった。人民がくれればもらい、くれなくてもかまわないというのがわれわれの立場だった。しかし、人民はいかなる状況のもとでも生命を賭してわれわれを援助してくれた、人民は覚醒し、奮起してつねに革命家を我が子のように助けてくれた。だからわれわれはつねに人民を信じた。人民のいるところでは、一度も食事を欠かすようなことはなかった。
われわれが赤手空拳でゼロから闘争をはじめ、勝利を重ねることができたのは、もっぱら人民の支持声援のたまものであった。弧楡樹の玄正卿、金保安、承春学、カリュンの劉永宣、劉春景、黄順信、鄭行正、五家子の辺大愚、郭尚夏、辺達煥、文時駿、文朝陽、金海山、李蒙麟、崔一泉などは、南満州と中部満州地方でわれわれに誠意をつくして支援してくれた忘れえぬ人たちである。
人民はたとえ自分はかゆをすすっても、われわれにはご飯を炊いて親切にもてなしてくれた。
われわれは人民に迷惑をかけるのがすまなくて、忙しくて徹夜をするという口実をかまえ、学校の宿直室に泊まることもあった。カリュンでは進明学校の教室がわれわれの宿所に利用され、弧楡樹と五家子では三光学校と三星学校の教室がそれにあてられた。
玄均は、わたしが三光学校の教室で寝ていると、きまってわたしを訪ねてきて腹立たしげに、わたしの腕を引っ張るのだった。
「トゥ・ドゥ」のメンバーで朝鮮革命軍隊員の玄均は、聡明、実直で、人情にも厚かった。
彼の兄玄華均は弧楡樹で農民同盟の仕事をしていたが、われわれの活動を少なからず援助した。
兄弟がそろってわれわれの組織のメンバーだったうえに、父親も独立運動をしていた関係で、彼の家族はいつもわれわれに親切にしてくれた。
玄均の父親玄河竹は、独立運動家のなかではかなり地位が高く、権威があった。河竹は号で、名は玄正卿である。弧楡樹の住民は彼を本名の代わりに河竹先生と呼んでいた。玄河竹先生といえば、当時、満州在住の朝鮮同胞のなかで知らない人はいなかった。
わたしの父も生前、折にふれて玄河竹先生のうわさをしたもので、彼とよしみが深かった。二人はたんなる親友ではなく、独立運動の同志として、たびたび会って互いの考えを語り合い、深い情愛をもって相手を尊敬し、ともに独立運動に献身した。
玄河竹先生は、統義府時代には中央法務委員長、正義府時代には中央委員会、そして国民府時代には民主主義者が民族単一党と呼んだ朝鮮革命党政治部の責任者であった。彼は共産主義にも理解が深く、日ごろ共産主義を志向する青年に同情をよせ、彼らをわけへだてなく扱った。
金赫や車光秀、朴素心らが柳河地方で社会科学研究会を設け、各地に反帝青年同盟組織を結成していたとき、玄河竹先生は青年の啓蒙をはかって、しばしば講師を勤めた。旺清門学院の時代と化興中学時代に彼の講義を聞いた人たちは、その後彼をよく回想したものである。
わたしが弧楡樹に行くと、玄河竹先生はいつもわたしを自宅にとめた。
「伯父の家に来たつもりでゆっくりくつろぎたまえ」
先生はいつもわたしにこう言った。先生はわたしの父よりも十歳年上だった。
わたしは先生の家に十日や二十日、ときには一ヶ月以上も泊まって大衆工作を進めた。ある年は弧楡樹で玄河竹先生の家族と一緒に端午の節句を祝ったこともある。
あのころは、一日ならいざしらず、何週間も客を泊め、食事をもてなすというのは容易なことではなかった。百姓をして小作料を納めた残りのわずかな食糧で、革命家の接待をするとなると、家族たちはかゆをすするのもむずかしかった。
玄河竹先生の家庭では、わたしにおいしい食べ物をもてなそうと真心をつくした。鶏をつぶしたり、豆腐や打ち豆、フダンソウの汁などもこしらえてくれた。
その家の婦人が豆腐をつくるためにひき臼をまわすときは、わたしも袖をたくしあげてまわすのを手伝った。玄華均の妻金順玉は二十二、三歳で、ひき臼の前でわたしと向かい合って座るのが恥ずかしく、いつもうつむいていた姿がいまも忘れられない。
玄河竹先生は民族主義団体の国民府内の革新派を自認し、ゆくゆくは共産主義運動に乗り出すつもりだとおおっぴらにいっていた。
弧楡樹を離れたわたしは、その後、玄河竹せんせいが国民府の内紛に嫌気がさして西安に行ってしまったという話を聞いた。張学良軍が西安へ移動したので、先生も張学良に期待をかけて、あとを追ったらしい。満州事変を前後して、東三省一帯で活動した多数の朝鮮の独立運動家が上海、西安、長沙などに活動舞台を移した。
祖国の解放後、外国訪問のさい、列車や飛行機で中国東北地方を通過するたびに、わたしはなじみ深い満州の山河を眺めながら、弧楡樹や玄河竹先生、そして先生の子孫たちのことを思った。先生は死去したとしても、子孫の一人や二人は生きているはずだが、どうしてなんの便りもないのだろうか、わたしは彼らの居所を知らないからどうしようもないが、彼らはわたしに手紙を出せるのではなかろうか、と思った。人の世話になるのはやさしく、恩を返すのはむずかしいものである。
ところが一九九〇年の春、玄河竹先生の子孫と感激的な対面をした。
玄河竹先生の長男の嫁金順玉が、わたしが彼女の家で使った真鍮の食器と、豆腐を作るときにまわしたひき臼を六十年間も保管していて、それを平壌の革命博物記念館に寄贈したのである、吉林の朝鮮人が発行する雑誌『桔梗』がそのいきさつを記事にしたのを、わが国の『労働新聞』がその全文を転載した。
こうして六十年間、消息の知れなかった恩人が生きていることをしったわたしは、感無量の思いにとらわれた。つねづね国が独立したら弧楡樹で世話になった恩を返そうと考えていたわたしは早速、彼女に会って粗餐なりともともにして、つもる話をしようと思った。
その金順玉も、死ぬ前にわたしに会えたら思い残すことがない、といったという。
それで一九九〇年三月、わたしの名義で金順玉を招待した。こうして彼女に会ったのだが、もう八十の高齢で、残念なことに老衰して歩行も自由にできなかった。
金順玉がわが国にくるとき、孫子を六人連れてきたが、わたしにはなじみのない顔ぶれだった。
彼らと会った席には玄均の息子もいた。彼の口許が不思議なほど父親に似ていた。口の格好だけでも似ていたので、故人の玄均が生き返ってわたしに会いにきたような思いがした。
わたしは金順玉一行を外国の貴賓用の宿所に泊め、一ヶ月ほど故国を広く見物するようはからった。
遺憾なことは金順玉が耳が遠く、話をよく聞き取れないことだった。発音も不明確で記憶力もかなり薄れていた。こうして、安否を案じていた恩人の一人に六十年ぶりに奇跡的に会ったものの、思うように意思の疎通ができなかった。わたしが思い出せないことは寛恕が補い、彼女が忘れたことはわたしが補って。弧楡樹にいたころのことをいろいろと回想することができるだろうと楽しみにしていたのだったが、期待がはずれて残念でならなかった。

子孫たちも玄河竹先生の運命と活動についてはよく知らなかった。それでわたしは彼らに、先生が朝鮮の独立のためにたたかい、われわれの革命活動を援助したことをくわしく話してやった。それは、先生の経歴をよく知っているわたしの義務でもあった。
たとえ同じ血筋を引いた子孫であっても、烈士の偉業をおのずと継承するものではない。烈士の闘争業績をよく知り、それを心から貴ぶ子孫であってこそ、父や祖父の世代が切り開いた革命偉業をしっかりと継承していけるのである。
わたしは金順玉と会った席で、孔国玉とも会い、また五家子でわれわれの革命活動をいろいろと援助してくれた文朝陽、文淑坤とも会った。
孔国玉はわたしの父が亡くなったとき、わたしに代わって三年ものあいだ麻の冠をかぶりも服を着てくれた孔栄の娘である。わたしが吉林で毓文中学校に通っていたある年、学期末休暇で撫松に帰省してみると、顔に火傷の跡ができて夫に嫌われ、実家へ帰っていた孔栄の夫人が、子どもを連れてわたしの家に来ていた。その子どもが孔国玉である。
わたしは解放直後、平壌で農民同盟の会議を指導したさい、碧潼の代表に孔栄の遺族のことをたずねたことがあった。彼が碧潼の出身だったので、未亡人と娘が故郷に帰っているのではないかと思ったからである。
その代表は、碧潼に孔という姓の人は多いが、孔栄の家族がいるということは聞いていないといった。
わたしは彼の返事を聞いて落胆した。それでもほかの遺族とは会っているのに、孔栄の遺族は行方すらわからないので、残念でならなかった。
そのころ、われわれは万景台に革命家遺児学院を建てる準備を進めていた。
わたしが平壌公設運動場で市民に凱旋のあいさつをしたあと、二十年ぶりに祖父母が待っている生家に帰ったとき、小学校の同級生たちが訪ねてきた。彼らはわたしの父が一時教師を勤めた順和学校の跡に、わたしの名を冠した中学校を建てようといった。万景台は金将軍が生まれたゆかりの土地なのだから、大きな学校を建てて、将軍の名を冠し「金日成中学校」と呼べばすばらしいではないかというのだった。
そのころまで、わたしの郷里には中学校がなかった。
わたしは彼らに、これまで数多くの愛国者がわたしと一緒に武器を取って山で戦い、犠牲になった、彼らはいまわのきわに、朝鮮が独立したら子どもたちを勉強させてりっぱな革命家に育ててくれとわたしに頼んだ。わたしはそれ以来、朝鮮が独立した彼らの遺言通り同志たちの遺児を勉強させて親の遺志をつがせようと考えてきた、祖国をとりもどしてみると、その決心がいっそう強くなった。だから万景台には中学校ではなく革命家の遺児を教育する学院を建てるつもりだ、と話した。
すると村人たちは、革命化の遺児がどれほどになるのか、そんなに多くもない遺児のために学院を建てようというのかといった。党や行政機関の要職をしめる幹部のなかにも、そんな人がいた。彼らはどれほど多くの人たちが国のためにたたかって犠牲になったか、想像すらできなかったのである。
異国の山河に戦友の屍を数知れず葬ったわたしは、そんなことをいわれるたびに驚かずにいられなかった。
われわれは、農民が土地改革後はじめて得た収穫の一部を国に献納した愛国米を元手にして、万景台に革命家遺児学院を創設した。
われわれは学院に引き取る遺児を探し出すために、多くの人たちを国内各地と中国東方地方へ派遣した。こうして数百人の意地が中国から連れられてきた。現在、党中央委員会で政治局員として活動している一部の同志も、そのころ林春秋にともなわれて祖国に帰った人たちである。
染料の売り子やタバコの売り子などをしていた一部の遺児は、万景台に革命学院が設立されるといううわさを聞いて訪ねてきた。彼らのなかには独立軍関係者の子孫や、労働組合や農民組合などの組織で反日闘争をして犠牲になった愛国者の子女もいた。
ところが、孔国玉はどうしても姿をあらわさなかった。
わたしは平安北道地方へ行くたびに、孔栄の遺族の行方を探し、地元の活動家にも彼女たちを探してもらいたいと依頼した。
わたしは祝日に学院を訪れて遺児たちと一緒にすごし、彼らが明るく踊りうたう様子を見ると、山菜の包みを頭にのせ、わらじをはいて小南門通りのわたしの家を訪ねてきた孔栄夫人の姿や、その背に負ぶさって拳をしゃぶっていた孔国玉の姿が瞼に浮かび、胸がうずいたものだった。
わたしは一九六七年に、やっと孔国玉を探し出した。それは彼女の母親が死去したあとだった。金日成が金成柱であると知っていたら、孔国玉の母親はきっとわたしを訪ねたであろう。彼女は金日成が誰か知らなかったし、共産党が政権をとったのだから、独立軍にいた夫をよく思わないだろうと考えて、子どもたちにも父親のことを話さなかったようである。
われわれは孔国玉を高級党学校で勉強させた。彼女は卒業後、平壌市党委員会や鉄道省事績館に勤めたが、いまは年を取って老齢年金をもらい、家庭で余生を送っている。
弧楡樹の金保安も玄河竹先生と同じく父の親友だった。彼は独立軍で中隊長を勤めたこともあった。
金保安は、わたしが玄河竹先生の家にばかり行き、自分の家に寄らないのが不満だった。同志たちが彼の家を訪ねたさい、金保安は、自分は金亨稷とはただの仲ではないし、成柱も粗末にしていないのに、どうして一度も訪ねてこないのかわからない、といったという。
それを聞いて、わたしは弧楡樹に行けば、必ず金保安の家を訪ねることにした。
金保安は薬局を経営し、そこからあがるいくらかの金を、われわれの三光学校の後援金として提供した。彼は教育事業に熱心で、青少年の啓蒙に大きな関心をよせていた。三光学校で後援をしてくれるようにとわれわれが依頼すると、いつも喜んで応じてくれた。
金保安は、弧楡樹の人たちは金の勘定もできない明き盲だ、そんなことでは朝鮮の独立はできるわけがないと慨嘆していた。
いまどきの人は、大人が金の勘定ができないといえば首を傾げるだろうが、あのころ中国人や吉林省に住む朝鮮人移住民のなかには、金の勘定ができない人が多かった。省で発行する貨幣と県で流通する貨幣が違い、吉林官帖とか、奉天大洋、吉林小大洋、銀大洋などさまざまな貨幣があって、その価値がそれぞれ違っていたので、無学者は市場で金の勘定ができなかった。
われわれは夜学に農民を集めて、算数の時間に金の勘定法を教えた。
金の勘定もできない明き盲たちだと舌打ちしていた金保安も、彼らが加減乗除を正確にするのを見て相好をくずし、「それはそうだろう。もともと朝鮮人は頭がよいんだからな」といった。彼は「無知な人間が有識な人間に成長するのを見るのは愉快なことだ」といって、夜学や三光学校の授業をよく参観した。
三光学校高等科の生徒たちはみんな頭がよくかしこかった。なかでもいまも印象にのこっていて忘れられないのは、劉春景や黄順信のことである。
二人はカリュンの革命組織から推薦されてきた女生徒だった。劉春景の父親劉永宣は、神明学校の教師を勤め、われわれの革命活動を極力支援してくれた。劉春景と黄順信は投じ十四、五歳だった。
われわれは弧楡樹からカリュンや吉林に帰るときは、彼女たちに武器を運んでもらった。軍閥の軍警は女の子はあまりきびしく取り締まらなかったからである。
劉春景と黄順信は、われわれに頼まれたことはいつも誠実にやってくれた。彼女たちはチマの下に武器を隠し、五十メートルほど離れてわれわれのあとについてきた。軍閥の軍警は、路上でわれわれを調べることはあったが、彼女たちには注意を向けなかった、
黄順信は解放後帰国し、郷里で農業にたずさわった。彼女は三光学校時代に少年探検隊員だっただけに仕事も熱心で、多収穫農民として知られた。そして人びとから親しまれ、尊敬されて一生を有意義に生きた。戦後、最高人民会議の代表員に選ばれたこともある。
劉春景は満州各地を転々とした末、李寛麟のように祖国で晩年を送ろうと、一九七九年に帰国した。

黄順信のように若い年で帰国していたら、彼女も後半生を名ある女性活動家として、社会と人民のためにもっと多くの仕事をしていたであろう。三光学校時代の劉春景は、女生徒のうちで作文や演説がいちばん上手で、頭がよく、将来が期待される少女だった。
われわれが安図で夕餉期待の創建準備に取り組んでいた当時、彼女は手紙で、わたしのいるところへ来て闘争をつづけたいと書いた。そのころは武装闘争の準備に奔走し、いったn武装闘争をはじめれば女性は男と行動をともにするのがむずかしいと思ったので、安図に来るようにという返事は出せなかった。
そのころ、われわれは男女同権を主張してはいたものの、序背は武装闘争に適さないと考えていたのである。
帰国当時、劉春景の年がせめて五十前後であったとしても、勉強させて社会活動に参加させたであろう。
われわれは、かつて革命闘争に参加または関与した人びとを探し出すと、多少年をとっていても勉強させて、適切な地位につけ、政治活動をさせるのを原則としていた。いかに聡明で有能な人間も、長年社会活動から離れて家庭に埋もれていれば、思考能力が衰え、世事にうとくなり、人生観にもさびがつくものである。
解放後かなり多くの闘士や革命戦争縁故者が適所に登用されず、埋もれていた。分派分子は、経歴は立派だが無知で使い道がないといって、長年、抗日闘士を幹部に登用しなかった。無知であるなら、なんとしても勉強させてりっぱな働き手になるよう育てるべきだが、取り合おうとせずにおしのけてしまったのである。
それで、われわれは革命家の遺児や革命闘争の縁故者を探し出すと、彼らを高級党学校や人民経済大学などで勉強させ、レベルに合わせて幹部に登用する措置を講じた。
学習もせず組織生活もしなくては、革命運動に長年たずさわった闘士であっても、時代に立ち後れてしまう。
多くの闘士と彼らの遺児、抗日革命闘争の援助者がこうした過程を経て、党と国家の有能な幹部に、著名な社会活動家に育った。
五家子の文朝陽もそういう人の一人だった。文朝陽は五家子で反帝青年同盟組織部長として活動したころ、辺達煥、崔一泉、金海山とともにわれわれの活動を極力援助した。彼はわれわれと一緒に多くの文を書き、演説をし、大衆組織を結成する活動にもエネルギッシュに参加した。彼の家は会議場としてもっとも頻繁に使われたと思う。
わたしは五家子では文朝陽の兄の文時駿と崔一泉の家でたびたび世話になった。
文時駿は気前のいい人さった。彼はわれわれが何ヶ月もそこで世話になっても、いっさい食費をとらなかった。われわれが五家子で活動していたとき、彼が豚をつぶしてご馳走してくれ、ぜひ国の独立をなしとげてくれといったことも、つい、きのうのことのようである。わたしは彼の家に長いあいだ泊まって世話になった。
彼の家では食膳にいつもニンニクの辛漬がのったものだが、その味は格別だった。その独特な味が忘れられず、解放後、文時駿の娘文淑坤にあったさい、そのことが思い出されて彼女を家に招き、その漬け方を教えてもらったほどである。
わたしが地方に行けば、ニンニクの辛漬がよく食膳に上がるが、あの困難な時期に五家子で水をかけた栗飯をかきこみながら食べた漬物の味にはとてもおよばない。
しばらく前に文朝陽は傘寿を迎えた。わたしは五家子のころを思い出し、彼に花束と祝膳を贈った。
わたしは五家子で、反帝青年同盟委員長権『農友』雑誌主筆の崔一泉の家でも、一度行けば何週間も泊まったものである。そのころ彼は、崔泉、崔燦善とも呼ばれた。『海外朝鮮革命運動小史』にある崔衡宇という名は、解放直後ソウルで使ったペンネームである。
五家子では彼がもっとも開けた人だった。彼は金赫のように詩はかかなかったが、散文家としての文才に恵まれていた。彼はわれわれに勧められて長年長春にすみ、地下工作員として活動しながら『東亜日報』支局長を勤めた。そしてわれわれの活動資料をいろいろと収集し、りっぱな文章を書いてはしばしば投稿した。
崔一泉は日本情報機関の「要注意人物」だった。彼が勤める『東亜日報』支局の玄関前には、日本の憲兵と密偵が監視するために交替で張り込んでいた。日帝が崔一泉に目をつけたのは、彼が長春で青年活動をつづけ、国内の愛国人士と緊密な連係を保ってさかんにわれわれの宣伝をしたからである。
われわれが東満州で武装闘争をはじめると、彼は反帝青年同盟組織を通じて育成した中核青年を抗日遊撃隊に送ってくれた。『海外朝鮮革命小史』に述べられた在満州朝鮮人の民族解放闘争の実情と闊達で情熱に満ちた彼の筆致は、そうした革命実践のなかで磨かれたものだと評価すべきである。
崔一泉は瀋陽と北京にいたころ、何度かソウルを訪れ、国内の著名な人士や各階層人民に抗日武装闘争の戦果を紹介した。祖国光復界十大綱領を全副的に支持し、その精神にのっとって民族文化と民族精神を守るためにたたかった。
崔一泉は日本官憲の迫害と監視がいよいよ厳しくなると、『東亜日報』支局長当時、満州各地で収集したわれわれの闘争資料と独立運動資料をもってソウルに行き、朝鮮語学会の会長をしていた李克魯先生に預けた。そこにはわれわれが五家子で発行した『農友』誌の束もあった。
「これは国家的価値のある資料です。わたしは敵の監視と追跡をうけているので、とてもこれらの資料を保管できそうにありません。国が独立したら、これらの資料を使って史書を著述したいと思いますから、それまで預かっていただきたいのです」
崔一泉は、このように李克魯先生に頼んで満州にもどった。
彼は解放直後、李克魯先生が大事に保管しておいた資料を返してもらい、一気に「海外朝鮮革命小史」を執筆した。それは砂粒まじりの粗末な再生紙に印刷したものだったが、すぐに売り切れたので、歴史や文学を専攻する若い知識人がそれを全文書き写し、耽読したといわれるほど人気のある書物である。
崔一泉は解放直後、米軍政庁が反共反北を南朝鮮の「国策」とする為政者を銃剣で支援した殺伐とした状況のもとで、反日闘争の漫画を出版して青少年に反帝反日精神を鼓吹した。
解放後、政治的混乱と無秩序が支配したソウルで、『海外朝鮮革命小史』のような重みのある書物を精魂を傾けて著述したというのは驚嘆すべきことである。
崔一泉は解放後、南朝鮮政界に進出し、朝鮮革命党政治部長、新進等中央委員会部長、金日成将軍歓迎委員会、民族自主連盟執行委員などの養殖を歴任し、呂運亨、洪命熹、金奎植などの人士と提携し、民主勢力の結集と南北統一のために献身的にたたかったが、祖国解放戦争中、ソウルで反動派に殺害された。
『海外朝鮮革命小史』は崔一泉の未完作である。彼は第二集について続巻を書くはずだったが、解放後の南朝鮮の複雑な政治舞台に足を踏み入れてからは、多忙にまぎれてそれを果たすことができなかった。彼は続巻でわれわれの革命活動を全面的に取り上げる計画だったという。
崔一泉が生きていたなら、その書物が世に出て、われわれの革命活動しに興味のある史料が添加されたであろう。
長い年月が過ぎたいまでは、抗日革命闘争の時期を回想しうる生存者が残り少なくなった。われわれの活動を回想できる人はさらに少ない。わたしの記憶にも限界がある。忘れたことも多く、記憶がおぼろで、正確に思い出せない日時や人物もある。

南満州と中部満州一帯でわれわれの活動を援助してくれた人のうち、金利甲の恋人、金京淑はとくに強い印象をわたしに残した。
金利甲は『金剛館(大成館)』事件の主人公で『海外朝鮮革命小史』にも紹介されている。
中国人に変装した日本領事館の警官が一九三〇年の春、吉林市内の福興街にある呉尚憲(呉春野)の家を襲い、金利甲に猿ぐつわをかませ、手足を縛って長春に連行した。その後、彼は法廷で懲役九年の重刑を言い渡され、大連監獄に投獄された。
金京淑の両親は、娘が金利甲のような革命家に嫁ぐのに反対したが、彼女は親に逆らって家出し、恋人を追って大連に行った。そのとき彼女は十八か十九歳であった。彼女は紡績工場に入り、共青の責任者として活動しながら、金利甲に差し入れをつづけた。
わたしにこの話をしてくれたのは、東満州特委書記をしていた童長栄である。彼は大連で地下活動をしていたとき全京淑にあったことがあるといい、彼女の真実な愛情に感動し、「彼女にあって、朝鮮女性の操と意志が極めて高いことを知った」といった。
わたしもそのことを聞いて、全京淑の高潔な品性に感嘆した。そして、南満青総大会に参加するため旺清門へ行っていたとき、わたしを夕食に呼んで、国民府のテロ計画をそっと知らせてくれた彼女のことを思い出し、金利甲はじつに幸福な男だと思った。
新しい世代の共産主義者が民族を救うために満州の大地で奔走していたとき、食べ物を提供し、爪に火を灯して蓄えた金を、学費や旅費に使うようにといって出してくれた恩人のはなしをしようとすればきりがない。
そのような恩人のなかには、まだ安否も居所も分からない人が数え切れないほどいる。いまでも彼らが姿をあらわしてくれれば、やるせない心が慰められそうである。彼らと一膳の食事なりともともにし、数十年の間積もった回顧談をすることができたら、それにこした喜びはないだろう。
しかし、そうしたからといって、彼らがわたしのためにつくした苦労と誠意にすべて報いることはできないだろう。
人民により幸せな生活と福利をもたらし、人民の支持声援のもとに開拓した革命を完成することが、彼らに対する最大の報いであり、贈り物だと思う。人民にこうした報いをする前には、なんぴとも共産主義者としての義務を果たしたとはいえないであろう。