革命詩人―金赫

革命は同志を得ることからはじまる。
資本家の元手は金であるが、革命家の元手は人間である。資本化が金を元手にして財貨の塔を築いていくとすれば、革命家は同志を元手にして社会を変革し改造していくのである。
青年時代、わたしのまわりには同志が多かった。彼らの中には人間的に親しくなった親友もおり、闘争のなかで志を同じくして同志になった人もいる。その一人ひとりの同志たちはみな、千金万金をもってしても換えられない貴重な人たちであった。
いま若い世代が革命詩人と呼んでいる金赫も、そうした同志の一人だった。金赫はわたしの青春時代に強い印象を残した人で、彼が死去して半世紀がすぎたいまも、わたしは彼を忘れられないでいる。
わたしが金赫に始めて会ったのは一九七二年の夏だった。
漢文の授業が終わって廊下で尚鉞先生と話しているところへ、権泰碩が来て、客が訪ねてきたという。見知らぬ人で、車光秀というメガネの男と一緒に正門にいるというのだった。
はたして正門には、女の子のようにきれいな顔をした青年がトランクをさげて、車光秀と一緒に立っていた。車光秀がいつも、才子だと賛辞を惜しまなかった金赫だった。彼は車光秀の紹介を待たずに、わたしに手を差し出し「金赫です」といって気安く握手を求めた。
わたしは彼の手を取って、自己紹介をした。
わたしがその場で金赫に親しみを覚えたのは、車光秀から彼の「広告」を耳にたこができるほど聞かされたことにもあったが、金赫の顔形がどこか金園宇に似ていたからでもある。
「金赫兄を寄宿舎に案内して、授業が終わるまで一時間ほど待ってくれないか。ほかの授業ならサボるのだが、あいにく尚鉞先生の文学の時間でね」
わたしは金赫に了解を求めて、車光秀にこう頼んだ。
「ほほう、尚鉞先生の文学の時間というと、みんなそんなに夢中なんだね。成柱も金赫のように文士になるつもりじゃないのかい」
車光秀はメガネを押し上げながら冗談をいった。
「金成柱だからって、文士になれないわけはないだろう。革命をやるには、どうしても文学をやる必要があると思うがね。どうだい金赫兄、そうじゃないだろうか」
金赫はわたしの言葉を聞いて歓声をあげた。
吉林に来て、はじめてうれしいことを聞くじゃないか。文学をぬきにした革命は語れない。革命そのものが文学の対象だし、母体なんだからな。文学教師がそんなにすばらしい先生ならぼくも会いたいね」
「じゃ、折をみて紹介しよう」
わたしはこう約束して、教室へもどった。
授業が終わって出てみると、車光秀と金赫は正門で、不変資本がどうの可変資本がどうのと論じ合いながら、わたしを待っていた。
二人の親友の熱気がわたしにも伝わってきた。わたしは、金赫が生まれながらの情熱家だと口をきわめてほめそやしていた車光秀の言葉を思い出し、りっぱな同志をまた得たとひそかに喜んだ。
「寄宿舎で待ってくれといったのに、どうしてこんなところに立っているんだ」
金赫は片目を細めて金色の日ざしが降りそそぐ空を見上げた。
「このよき日にゴキブリみたいに部屋にへばりついていてもしょうがない。吉林市内を一日じゅう歩きながら話そうじゃないか」
「金剛山も食後の眺めというから、昼食をとって北山か江南公園へ行こう。上海からはるばる訪ねてきた初対面の客に、食事もおごらないようでは非礼だからな」
「吉林で成柱君に会えたのだから、何食抜かしてもがまんできそうだよ」
金赫は性格も情熱的だが、物腰もきびきびしていた。
あいにくわたしの財布には金がなかった。そこで、金を払わなくても喜んでもてなしてくれる三豊旅館に彼らを案内した。そこの人たちは愛想がよく、それにうまいソバを出した。旅館の女主人にわけを話したところ、ソバを六人前出し、一人に二杯ずつふるまってくれた。
金赫は丸三日間、わたしの部屋で夜通し話しこんだ。そして四日目に、吉林一帯の様子を知りたいといって車光秀のいる新安屯に出かけた。
わたしは一目で、彼が情熱家だと思った。車光秀がひょうきん者だとすれば、金赫は情熱家だった。いつもは女の子のようにもの静かだが、いったんなにか刺激をうけると、釜のように沸き立って熱気を吹き出すのである。車光秀と同様、東洋三国をまわり、世の辛酸をなめつくしたという風雲児だが、それにしては性格が淡白だった。話をしてみると、見聞も広く理論水準も高かった。とくに文学と芸術に造詣が深かった。
われわれは文学と芸術の使命について多くを語り合った。金赫は、文学と芸術は当然、人間賛歌となるべきだと力説した。吉林ですごすうちにその考えはさらに洗練されて、文学は革命賛歌となるべきだといった。文学観も革新的だった。われわれは金赫のそうした長所を参酌して、一時、彼に主として大衆文化啓蒙の仕事をまかせた。彼が演芸宣伝隊の活動をたびたび指導したのもそのためである。
金赫は詩作にたけていたので、われわれは彼をウジェーヌ・ポティエと呼んだ。彼をハイネと呼んだ人もいる。実際、金赫はハイネやウジェーヌ・ポティエをどの詩人よりも高く評価した。わが国の詩人のなかでは李相和をもっとも愛した。
彼が好んだ詩は、おおむね格調の高い革命的な詩編だった。しかしおもしろいことに、小説では激情的な崔稲香の作品を好んだ。
わたしは金赫のそうした趣味を見て、世のことわりは妙なものだと思った。実際、われわれの生活には対照的なものが結び合ってうまく調和する場合が多い。車光秀はそんな現象を「陰と陽の結合」と適切に表現した。彼は金赫の場合も、陰と陽が適切に結合して独自の文学的個性を生み出しているのだといった。
金赫は複雑多端な革命活動のかたわら、りっぱな詩を多くつくった。われわれの革命組織に参加した吉林の女学生たちは、彼の詩を手帳に書きとって、好んで詠んだものである。
金赫の詩のつくり方は一風変わっていた。紙に書きはじめるのではなく、最初から最後の行まで頭のなかでそらんじながら完成していき、これでよいと思うと拳で机をドンとたたいて、おもむろにペンを取り上げるのである。
彼が机をたたくと詩が一編できあがるのを知っていた同志たちは、「金赫がまた卵(詩)を一つ生んだ」といって喜んだ。彼が詩を脱稿するのは、われわれ共通の慶事でもあった。
金赫には共青員の承少玉という美貌の恋人がいた。すらりとした体つきに福々しい顔をしていたが、正義感が強く、死をも恐れない気概と胆力のある女性だった。
承少玉は共青の組織生活に忠実だった。
吉会線鉄道の敷設に反対する大衆的闘争の起こった年の秋、わたしは街頭で彼女の扇動演説を聞いたことがあるが、なかなかの達弁だった。
手帳に金赫の詩を書き取って、人一倍愛誦していた女学生が承少玉である。彼女は詩の朗誦も歌も演説も上手で、年中白いチョゴリに黒いチマを着ていたので、承少玉といえば吉林市内で知らない青年がいなかった。
生活を情熱的にうけとめて詩作していた金赫は、愛情の面でも情熱的だった。青年共産主義者は革命運動にたずさわりながら恋愛もした。一部の人は共産主義者には人間性も人間らしい生活もなく、人間らしい愛情もないといっているが、それは共産主義者を知らない人がいうことである。われわれの多くの同志は革命運動をしながら恋愛をし、戦火のなかで家庭生活も営んだ。
わたしは学期末休暇になると、金赫と承少玉に大衆工作の任務を与えて弧楡樹へ派遣した。弧楡樹に彼女の家があったからである。
二人は大衆活動の合間に、柳の生い茂る伊通河の川辺で釣りを楽しんだりした。釣り糸を垂れる金赫のそばで承少玉は釣り糸から魚をはずしたり、餌をつけたりした。景色のうるわしい北山や松花江のほとりで、そして伊通河の岸辺で二人の革命的愛情はいっそう深まっていった。
ところが、なぜか承少玉の父親の承春学は二人の仲を喜ばなかった。