朝鮮革命軍

カリュン会議が重要な課題の一つとしてうちだした党組織建設の活動は、最初の党組織―建設同志社の結成によってその第一歩を踏み出した。
しかし、われわれはこれに満足することができなかった。われわれには武装闘争を準備する困難な任務が残されていた。
われわれは武装とうそうの準備活動としてまず、孤楡樹で朝鮮革命を結成した。
われわれが一、二年後に常備の革命武力の創建を予定していたにもかかわらず、朝鮮革命軍のような過渡的な政治・半軍事組織を創設したのは、革命軍の活動を通して規模名遊撃部隊を編成する準備をととのえるためだった。われわれは朝鮮革命軍の政治・軍事活動を通して武装闘争の大衆的基盤を構築し、武装闘争に必要な経験を積もうと考えた。
じつのところ、われわれには武装闘争に必要な知識がなかった。自国でなく他国の領土で武装闘争をするだけに、われわれはその経験が必要だった。しかしわれわれが参考にすべき軍事教範や経験はどこにもなかった。
われわれに元手があったとすれば、何人かの独立軍出身の同志と華成義塾時代の同志、それに拳銃がなん挺かあったにすぎない。そのほかにはなにもなかった。自力で武器を獲得し、軍事的経験を積まなければならなかった。
そのための過渡的な組織が朝鮮革命軍だった。
孤楡樹ではじめのころ金園宇、李鍾洛が革命軍の結成準備にあたり、そのあと車光秀が派遣されて準備を完了した。
革命軍結成の準備活動は各地で各同時に進められた。
準備活動での基本は、革命軍に入隊させる青年の選抜と武器の入手であった。
われわれがその方途の一つにしたのは、独立軍に動きかけて先進思想に同調する堅実な軍人を味方に引き入れ、人と武器を獲得するやり方だった。革命軍に軍人出身が多いと、彼らを母体にして、軍事知識のない青年にも訓練を与えることができるわけである。それで、同志たちは国民府傘下の独立軍にたいする工作を積極的におこなった。われわれの方針は、独立軍のなかで進歩的な思想をもつ軍人に影響を与えて味方につけ、思想的準備の程度によって革命軍にも受け入れようというものであった。
国民府はそのころも、国民府派よ反国民府派に分かれてヘゲモニー争いをつづけていた。国民府派は在満朝鮮人の統帥権を、反国民府派は独立軍の統帥権をそれぞれ握ることになった。それは民衆と軍隊を分離する結果をまねいた。一九三〇年の夏になって、両派の対立は互いに相手の幹部を暗殺するプロに発展し、両派は完全に決裂状態に陥った。
こんな有様だったので、独立軍内部では隊員ばかりでなく小隊長や中隊長でさえ上層部に背を向け、その指示に服従しようとしなかった。むしろ、彼らはわれわれが派遣した工作員のいうことをよく聞いた。
車光秀は通化、輝南、寛西一帯で独立軍の工作にあたり、李鍾洛は孤楡樹で彼の指揮する隊員を教育して革命軍に受け入れる準備をした。
李鍾洛は孤楡樹で正義府所属の独立軍第一中隊に勤務し、その後、華成義塾で「トゥ・ドゥ」に加入した。彼と一緒に華成義塾に推薦されてきた第一中隊出身のなかには、朴且石、朴根源、朴炳華、李順浩などの青年がいた。
李鍾洛は華成義塾の廃校後、孤楡樹の出身中隊に帰隊し、副中隊長をへて中隊長になった。いまとは違って兵力が少なかったあのころは、中隊といえば大きな兵力であった。満州で最大の勢力といわれた国民府も、讃歌に九つの中隊があったにすぎなかった。だから、中隊といえばおのずと、独立軍のなかでたいした幹部としてあがめられた。孤楡樹で李鍾洛はたいそう威信のある存在だった。
金赫、車光秀、朴素心らが1928年から一九二九年にかけて、柳河地方で崔昌傑の影響下にあった独立軍の保護をうけながら活発に革命活動をおこなったように、孤楡樹に派遣された同志たちも李鍾洛の指揮する独立軍部隊の保護をうけながら活動した。
李鍾洛もそのころは革命をやろうという覚悟と熱意が高かった。彼は華成義塾の廃校後、出身中隊に帰り、われわれが樺甸で任務を与えたとおり、独立隊員にたいする活動を忠実におこなった。大胆さ、決断力、判断力、統率力などに富んでいるのが、彼の長所であった。
その反面、彼は冷徹な理性と思考力に欠けていた。気分本位に行動し、過激に走り、個人英雄主義が濃厚だった。後日、彼が革命を裏切った重要な原因はそこにあったと思う。
一部の者は、独立軍の指揮体系が乱れ、内部が四分五裂の状態にあるのだから、各地に分散している中隊を武装解除し、国民府の反動分子を粛清しようと主張した。そして独立軍のベールを脱ぎ捨てて公然と活動し、武器を獲得し、国民府とも対決しようといった。
わたしは独立軍との活動で極左的誤りを犯さないよう、そうした傾向をきびしくいましめた。
亨権叔父も二つの工作グループを編成して長白地区に進出した。叔父は芝陽蓋の裏山に根拠地を定め、長白の各地に白山青年同盟支部、農民同盟、反日婦女会、少年探検隊を組織して、武器獲得工作と意識化活動をくりひろげ、地元の青年を受け入れて軍事訓練をほどこした。亨権叔父の努力によって長白地区の独立軍兵力はわれわれの影響下に入ってきた。
隊員選抜と後進の養成とならんで武器獲得工作も活発におこなわれた。
武器獲得での最大の功労者は崔孝一である。彼は鉄嶺にある日本人銃器商店の店員を勤めていた。当時、多くの日本人が満州で銃器を売っていた。彼らは匪賊にも中国人地主にも銃を売った。崔孝一は小学校の学歴しかなかったが、日本語が上手で日本人なみに流暢に話した。崔孝一は店員にしておくには惜しいくらい頭が切れ、日本語も巧みだったので、店主はすっかり彼にほれこんでいた。
崔孝一を見方に引き入れたのは張小峰だった。カリュンを開拓するさい、長春、鉄嶺、公主嶺一帯を往来していた張小峰は、たまたま崔孝一と知り合った。何度か付き合ううちに、彼の誠実で剛直な人柄を知った張小峰は、彼を反帝青年同盟に加入させ、李鍾洛に紹介した。それ以来、崔孝一は鉄嶺で敵中工作員をはじめた。彼は李鍾洛と連係をもち、独立軍中隊に武器をひそかに売り渡した。店主は崔孝一が売った銃器が朝鮮人の手に渡るのを知りながらも、それを金儲けだということでそしらぬ顔をしていた。
崔孝一は最初は中国人に武器を売り、つぎは独立軍に渡し、しまいには鉄嶺の日本人商店を共産主義者に武器を供給、調達する専用商店のようにしてしまった。そうしているうちに彼の世界観もめざましく発展した。
李鍾洛と張小峰はわたしに会うたびに、鉄嶺にいるすばらしい青年を獲得したといって崔孝一をほめた。それで、わたしも崔孝一にひそかに大きな期待をかけた。
一九二八年だったか、それとも一九二九年だったか、崔孝一はわたしに会うためにわざわざ吉林にやってきた。会ってみると、彼はまるで深窓の佳人といったような色白の美青年だった。ところが容姿とは違って酒好きだった。革命家の物指しをもって測るとすれば、それがやや欠点といえた。わたしは旅館で一緒に食事をとり、長時間語り合った。彼が日本の「奥さま」言葉を真似て、日本の天皇や高位級の軍人、政治家、それに朝鮮の売国五大臣を罵倒したので、わたしは腹をかかえて笑った。
崔孝一の妻は人がうらやむ美女だったが、彼は家庭生活に浸らず超然としていた。しかし娘のような顔立ちとは違って、革命闘争では驚くほど度胸があり、意志が強かった。
彼が日本人商店の銃器を十挺ほど奪取して、妻と一緒に孤楡樹へ脱出してきたのはカリュン会議の直前だった。われわれが常備の革命武力建設に先立って、過渡的段階として小規模の軍事・政治組織を結成する準備を急いでいた折だったので、崔孝一の脱出は大歓迎をうけた。
わたしは同志たちの報告を通して革命軍の結成準備が完了したことを知った。孤楡樹にいってみると、隊員の名簿や武器がととのっており、結成集会の場所や参加者も決めてあった。
朝鮮革命軍の結成指揮は、一九三〇年七月六日、三光学校の運動場でおこなわれた。
武器を授与する前に、わたしは簡単な演説をした。わたしは、朝鮮革命軍は抗日武装闘争の開始を準備するための朝鮮共産主義者の政治・半軍事組織であると規定し、朝鮮革命軍を土台にして今後、常備の革命武力が創建されるであろうと宣言した。
朝鮮革命軍の基本的使命は、都市と農村で人民大衆を教育し覚醒させて、彼らを抗日の旗のもとに結集しながら武装闘争の経験を積み、本格的な武装隊伍を結成する準備を進めるところにあった。

わたしはそのとき、叔父の激情に駆られやすい性分を思い出した。なぜかわたしは、叔父がその激情をおさえられず、銃声を上げたのではなかろうかと思った。
叔父は小さいときから、いったんこうと思ったら、なにがなんでもやりとおさずにはおかない、男らしい気質をもっていた。
亨権叔父といえば、わたしは真っ先にひき割り粥の出来事を思い出す。わたしが万景台にいたころだから、叔父が十一か十二のときである。
わたしの家では、毎晩モロコシのひき割り粥をすすっていた。それはモロコシを殻ごとひき臼でひいたものを炊いたもので、おいしくもなかったが、それよりも、飲みこむたびにモロコシの殻が喉をちくりちくり刺激するので、とても食べづらかった。わたしもひき割り粥は大嫌いだった。
ある日、お膳の前に座った亨権叔父が、祖母の持ってきた熱いひき割り粥のどんぶりを頭ではねとばしてしまった。なんとも勢いよくはねとばしたので、どんぶりは土間に転がり、叔父の額からは血が流れた。まだ物心がつかないころのことなので、粥をすすって空腹をしのぐ貧しい暮らしに腹を立てて、どんぶりに腹いせをしたのだった。
祖母は「食べ物のことでとやかくいうのをみると、行く末が思いやられる」といって叔父を叱ったが、目には涙がにじんでいた。
亨権叔父は物心がつくと、額の傷を気にするようになり、わたしの家にいたときは、前髪をたらして傷を隠していた。
亨権叔父が中国に来たのは、わたしたちが臨江にいるときだった。父が叔父を家に引き取ったのは、勉強させるためである。父が教育者だったので、叔父はわたしの家にいれば、学校に通わなくても中学の課程は学ぶことができた。父はゆくゆく叔父を革命家に育てるつもりだった。
父が生きていたあいだ、亨権叔父は父の薫陶でかなり堅実に成長した。
しかし、父が死去すると自制心を失い、気まかせにふるまいはじめた。頭で引き割り粥のどんぶりを割った小さいころの習癖がよみがえって、みなを唖然とさせた。亨権叔父は父が死去してからは家にじっとしていようとはせず、臨江、瀋陽、大連などをさまよい歩いた。
わたしの家の内情を多少知っている人は、叔父が故郷に帰って両親が決めた女性と婚約したが、許嫁が気に入らなくて、ああして落ち着かないのだろう、といった。
もちろん、それも原因かもしれない。しかし、叔父が落ち着きをなくした主な原因は、父の死去からうけた絶望と悲憤をぬぐい去ることができなかったからである。
わたしが華成義塾を中退して家に帰ってみると、叔父は依然として酔漢かなにかのような乱れた生活をしていた。わたしの家の暮らしは、母が洗濯や裁縫の賃仕事をして稼ぐわずかな収入に頼っていたので、たいへん苦しかった。そんな暮し向きを見るにしのびなかったのか、李寛麟もいくらかの金と米を持ってきて母の手助けをしていた。叔父は亡くなった父に代わって家長の役目を果たすべき立場にあった。家で叔父のやれる仕事がないかというと、そうでもなかった。家には父が残した薬局があった。そこに多くはないが、うまくやりくりすれば暮らしの足しにできる薬剤もあった。しかし、叔父は薬局を見向きもしなかった。
正直にいって、わたしは叔父のやることがじれったかった。それである日、わたしは家に閉じこもって叔父に長文の手紙を書いた。もっとも正義感が強いといわれる中学時代なので、道理に反することには目上の人でも我慢ができなかった。わたしはその手紙を叔父の枕下に置いて吉林へ発った。
母は、わたしが手紙で叔父に意見するのが気に入らなかった。
「いまは叔父さんが気持ちが落ち着かなくて家にいつかないけど、そのうちよくなるよ。いくらなんでも本元を忘れるものかね。思う存分出歩いて、嫌気がさしたら家に帰ってくるよ。だから意見なんかすることはない。甥が叔父をいましめるなんてことはするんじゃないよ。」
母はこうわたしをさとした。母らしい考えだった。それでもわたしは手紙を書き残した。
一年後、吉林毓文中学校に通っていたわたしが学期末休みに撫松へ帰ってきてみると、驚いたことに亨権叔父は家に落ち着いていた。母の予言が当たったのである。叔父はわたしの置手紙については一言も口にしなかった、その手紙が叔父にかなり刺激を与えたことは確かだった。その年の冬、叔父は白山青年同盟に加入した。
わたしが撫松を発ったあと、叔父は白山青年同盟を拡大する活動にうちこんだ。翌年は同志の保障で共青にも加入した。こうして叔父は革命隊伍に加わり、一九二八年からは共青の指示で、撫松、長白、臨江、安図地方の白山青年同盟の活動を指導した。
新聞を見た近所の人たちから、豊山で日本人巡査部長を射殺した事件を聞いて、万景台のわたしの生家でも亨権叔父が逮捕されたことを知った。
祖父は「亨稷がそんなことをしていたのに、今度は亨権も日本人を撃ち殺したんだな。先のことはどうなるか知れないが、とにかくあっぱれなことじゃ。」といった。
後日、わたしは豊山で国内工作グループか展開した活動の全貌を知った。
鴨緑江を渡ったグループは端川方面に進出する途中、一九三〇年八月十四日、豊山郡把撥里付近にある黄水院のクロマメノキの茂みのなかでしばらく休んでいた。そこへたまたま自転車に乗って通りかかった「クマンバチ」巡査部長(本名は松山)が一行に不審の目を向けた。彼は一九一九年に豊山地方に転任して以来、朝鮮人の一挙一動をきびしく取り締まっている悪質警官だった。地元の人たちは彼に「クマンバチ」というあだ名をつけ、彼をひどく恨んでいた。
「クマンバチ」は工作グループが駐在所の前を通りかかったとき、一行を駐在所の中へ呼び入れた。
亨権叔父は駐在所に足を踏み入れたとたん、すばやく彼を撃ち倒した。そして公然と人びとの前で反日演説をした。その日、数十人の人たちがその演説を聞いた。非転向長期囚として世界に広く知られた前人民軍従軍記者李仁模もそのとき、把撥里でその演説を聞いたという。
工作グループは敵の追撃をうけながらも、農民暴動の炎が燃え上がった地域に接近しようと試みた。
当時、われわれは端川農民暴動をきわめて重視していた。暴動が起きた地域には必ず大衆運動の指導者がいるものであり、政治的、思想的に目覚めた積極的な革命的大衆の組織された大部隊が存在するものである。
敵は暴動地域で主謀者を探し出そうと血眼になっていたが、われわれは暴動大衆のなかにいる汪清の呉仲和、竜井の金俊、穏城の全長元のような中核分子を探し出そうと努めた。彼らのような中核分子と連係を保って影響を与えるならば、国内の革命闘争をもりあげる基盤をきずくことができる。端川地区の開拓に成功すれば、その地方をへて城津、吉州、清津方面にも手を伸ばし、威興、興南、元山をへて平壌にも進出することができるはずであった。
われわれが亨権叔父の国内工作グループに、端川農民暴動の主人公を訪ねあてる任務を与えたのもそのためだった。
把撥里で銃声を上げたあと、そこを発った武装グループは峰五洞のはずれで豊山警察署の司法主任が乗った乗合タクシーを抑留し、彼の武装を解除したあと、主任とその他の乗客に反日宣言をした。ついで利源郡文仰里一帯に進出して、培徳谷と大岩谷など各地点で炭焼き労働者を相手に政治工作をおこなった。困難な状況にもかかわらず、つねに彼らは積極的に行動した。
武装グループはその後、北青方面に進出する途中、二組に分かれて行動した。亨権叔父と鄭雄が一組になり、崔孝一と朴且石が他の一組になった。二つの組は洪原邑で落ち合うことに死、それぞれ別の方向に向かった。
九月の初め、亨権叔父は鄭雄とともに敵の捜索隊がたむろしている北青郡大徳山の広済寺を襲撃したあと、洪原、景浦の方向に進出したが節婦岩付近で敵と遭遇し、前津警察官駐在所の所長を射殺した。
叔父はその日のうちに洪原邑に入って集結場所の崔辰庸の家を訪ねた。
崔辰庸といえば、亨権叔父ばかりではなく、わたしもよく知っている独立軍関係者だった。彼は撫松で安松総管所の総管理をしていたとき、わたしの家にもたびたび出入りした。
朝鮮で面長を勤めていた彼は、金を横領して発覚し、人びとの指弾をうけると、夜逃げして東北に渡り、正義府に加わった。一時彼は、わたしの家で何か月も居候をした。ところが日帝が満州を侵略する気配を見せると、もう年をとって独立軍の仕事をするのが力に余るといいだして、撫松を発った。小さな果樹園でも手に入れて清く余生を送りたいといって洪原に行った彼は、そこですぐ日帝の密偵になりさがった。
亨権叔父がそれを知るはずはなかった。崔辰庸は敵の警戒がきびしいからと、叔父に庭の片隅に隠れているようにといって警察署に駆けつけ、満州の武装団が自分の家に来ていると密告した。
そのときはじめて、叔父は崔辰庸が日帝の手先であることに気づいた。彼の裏切りはあまりにも突然で思いがけないことだった。数か月のあいだ、日に三度あたたかいご飯に酒までそえてもてなしてくれた、成柱のお母さんの恩は死んでも忘れないと口癖のようにいっていた男が、汚らわしい背信行為をするとは誰が想像できたであろうか。わたしも彼が叔父を密告したと聞いたとき、耳を疑ったほどだった。
それで、わたしはいまも、人を信じるのはよいが、幻想をいだいてはいけないといっている。幻想は非科学的であるので、それにとらわれると、千里眼を誇る人でもとりかえしのつかない失策をしかねないのである。