遺産

わたしが八道溝に住んでいたころ、しばしばわたしの家を訪ねた黄氏は、父の生涯に大きな痕跡を残した人である。厚昌で日本警察から父を救い出した人が黄氏だった。
父は国内組織とのつながりをつけるために葡坪へ渡り、アジトのそば屋の近くで、待ち伏せしていた警官に逮捕された。日帝に父を密告したのは、わたしの家の裏手で宿屋を営んでいる孫世心だった。彼は三日にあげずわたしの家を訪ねては、「金先生」「金先生」といって父にへつらった。そのとき父は、彼が密偵であることに気づかなかった。
総督府警務局は、地下組織を探り出そうとして父の逮捕を極秘に付し、平安北道警察部に高官を急派して父の調査にあたらせた。一方、葡坪警察官駐在所の巡査部長秋鳥といま一人の巡査が、父をただちに厚昌警察署を経由して新義州の道警察部まで護送することになった。日帝が父を逮捕し、ただちに新義州へ護送することにしたのは、鴨緑江沿岸で活動中の独立軍に父を奪還されるおそれがあったからだった。父が葡坪警察官駐在所に拘留されているときは、家族との面会が許されなかったので、父が新義州に護送されることを誰も知らなかった。
そんなとき黄氏が駆けつけて父のことを知らせ、母にこういった。
「おくさん、わたしが家産を売り払ってでも、弁護士をつけて裁判の結果を見届けますから、あまり心配なさらないでください。ところで、お宅にお酒があったら何本かいただけませんか」
彼はきつい酒を数瓶と干しメンタイ二十尾を背負い袋に入れて、ひそかに父のあとを追った。
朝早く出発した巡査たちは、昼ごろ煙浦里の居酒屋に着いた。彼らは腹がへったといって、主人に食事の用意をさせた。一行のあとを追って煙浦里に着いた黄氏は、居酒屋に入り様子を見計らって背負い袋から酒瓶を取り出して、巡査たちに勧めた。
彼らは最初のうちは、罪人を護送中だからと断ったが、黄氏からしきりに勧められると、「うん、なかなか話せる」といって、ちびりちびりやりだした。黄氏は罪人にも飯は食わさなく茶と巡査たちを説いて、父の片手の手錠をはずさせた。黄氏は酒をかなり飲んだが酔わなかった。彼は酒豪だった。
やがて秋鳥と部下の朝鮮人巡査はその場に酔いつぶれて、いびきをかきはじめた。
そのすきに父は黄氏から手錠をはずしてもらい、二人一緒に居酒屋を飛び出して、向かいのピョジョク峰に登った。頂上近くにたどりついたとき、雪が降りはじめた。
酔いがさめた二人の巡査は驚きあわて、銃を撃ちながら父を追撃した。そんなわけで、父はピョジョク峰で黄氏と別れ別れになり、その後、彼とは会う機会がなかった。
解放後、わたしは黄氏を探そうと方々あたってみた。あの困難なときに生命を投げ出して父を助けてくれた人が、国が解放されてからはなかなか名乗り出ないのである。
黄氏は父に代わって断頭台に立つことさえ辞さない真実の友人であり、同志であった。
黄氏のような誠実な同志の援助がなかったなら、あのとき父は死地を脱することができなかったであろう。父の親友たちが、父は友人に恵まれているといったのは、いかにもうなずけることである。父が国と民族のために一身をかえりみず、多くの独立運動家と生死、苦楽をともにしたので、そのまわりには多くの大衆や革命同志、親友がいたのである。
わたしは後退の時期(一九五〇年、祖国解放戦争の戦略的後退の時期)、李克魯先生からも、父の脱出とかかわりのある話をくわしく聞くことができた。
戦争が起きた年の初秋、共和国政府は現物税の納付を促すため数人の閣僚を全権代表に任命して各地方に派遣した。当時、無任所相であった李克魯先生も平安北道に派遣された。
先生が任務を果たしていたとき戦略的後退がはじまり、わたしは江界地方に行っていた。ある日、内閣にその間の報告をしたといってわたしを訪ねた彼が、だしぬけに煙浦里の居酒屋の話をもちだした。彼は厚昌郡で仕事を終え江界に向かうとき、郡内務署長を伴って煙浦里に立ち寄り、わたしの父が脱出した居酒屋へ行ってみたが、当時の建物がそのまま残っていたというのだった。江界と厚昌はそのころは平安北道に属していた。
一生を南朝鮮と海外ですごし、解放後、共和国の創建前に北半部へ移ってきた李克魯先生から、煙浦里の居酒屋の話を聞くのは、まったく意外なことだった。いまのように父の事績が広く公開されているときならいざ知らず、当時はまだ煙浦里の居酒屋のいわれを知っている人はほとんどいなかったのである。
わたしは好奇心に駆けられて、李克魯先生にたずねた。
「李先生はどうしてわたしの父の経歴をご存知なのですか?」
「わたしはすでに二十年前から金亨稷先生の名声をうかがっていました。吉林で、ある奇特な方が将軍のご一家のことをいろいろと話してくれました。戦争が終わったら、尊父の伝記を書こうと思っています。ただ文才がないのでためらっているのです」
いつもは無口で物静かな李克魯先生が、その日はすっかり興奮して多弁になった。
われわれは騒々しい内閣の執務室を抜け出て、人の往来の少ない禿魯江(将子江)の岸辺を散策しながら一時間あまり語り合った。
李克魯先生に父の話をしたのは、黄貴軒の父親黄白河だった。当時、李克魯先生は新幹会代表団の一員として満州地方に出かけていた。代表団は五・三〇暴動と八・一暴動で被害をこうむった朝鮮同胞の救済を目的にしていた。暴動の被害者が続出したので、新幹会の指導部がその救済に満州地方へ代表団を派遣することにしたのであった。
そのとき李克魯先生は瀋陽で崔一泉に会った。吉林に行ったら黄白河に会うようにと勧めたのは崔一泉だった。
李克魯先生は彼にいわれたとおり吉林に行ったさい、黄白河に会って救済事業の援助をうけ、わたしの父の話も聞いた。それ以来、煙浦里が厚昌郡にあり、厚昌郡がわたしの父の主な活動縁故地であることを知ったというのである。
新幹会が李克魯先生を満州地方に代表として派遣したのは、彼がこの一帯で多年教育事業にたずさわったからだった。先生は内島山の独立軍部隊で一時訓練都監を勤め、撫松の白山学校と桓仁県の東昌学校で教鞭もとった。それだけに、先生が満州で父のこおを聞いたというのは、十分ありうることだった。
「郡内務署長は居酒屋の件を知りませんでした。わたしは、そんなことでは厚昌郡の恥だと批判してやりました。そして、内務署長に責任をもって居酒屋を保存するよう依頼しました」
李克魯先生は、若い者たちが烈士の闘争の歴史を知らないようでは道義をわきまえない人間になる、活動家たちは伝統教育をやっていないようだ、と心配していた。
創建して二年にすぎない若い共和国が存亡の岐路に立たされていたきびしい試練の時期に、革命伝統を固守しなければならないという先生の話を聞いて、感謝の念がこみあげた。祖国解放の戦いに倒れた烈士の霊魂がわれわれに、戦いに勝て、祖国を最後まで守りぬけ、と絶叫しているという思いをわたしは禁じえなかった。
朝鮮は滅亡したと騒がれていたときに、李克魯先生から聞いた煙浦里の話はわたしを力づけた。
黄氏と別れた父は終日、山中をさまよい、煙浦里の居酒屋からさほど遠くない柏嶺でみすぼらしい壕舎を見つけ、主人に助けを請うた。父は主人と生命を名乗りあい、彼が全州の金氏であることを知った。
壕舎の主人は、柏嶺の深い山奥で同本同姓の革命家に会ってこんなうれしいことはない、といって好意をよせ、父を誠意をつくして助けた。
金老人は壕舎近くの栗塚の中に父をかくまった。そのとき、足や膝など父の下半身はすっかり凍傷を負っていた。父はすき間から冷たい風が吹きこむ栗塚の中で何日も体を縮めて身動きもできずに隠れていたので、難治の病気にかかったのである。
老人は栗塚の中に握り飯や焼きジャガイモを入れてくれ、父を保護した。
父を逃した秋島は上司からきびしく叱責された。平安北道警察部は厚昌から竹田里までの鴨緑江流域に水ももらさぬ警戒網を張り、連日捜査をつづけた。しかし、柏嶺の栗塚には注意を向けなかった。父は状況を正確に判断し、適切な隠れ場を選んだといえよう。
その間、金老人は鴨緑江へ下りていって、川が凍ったかどうかを確かめ、父に長い竿を使って川を渡る方法を教えた。まだ氷が厚くなかったので、軽率に川を渡っては危険だったのである。

弟たちはわたしがあいさつするいとまもなく、父にまつわりついて、二か月間の積もる話をわれ先に話しだした。
父は弟たちの甘えごとにいちいち応じながらも、わたしの顔から視線を離さなかった。
「祖国の水はたしかにいいようだ。おまえを朝鮮に送ってからは夜もおちおち眠れなかったが、こんなに大きくなったんだな」と、父は喜んだ。
その日、わたしたちは一家水入らずで一晩中語り明かした。父の脱出を助けた黄氏と全州の金老人のことや、漫江の土匪の巣窟での孔栄の勇敢なたたかいについての話を聞いたのも、その晩のことだった。
わたしは祖国で実感したことを話し、朝鮮が独立しなければ二度と鴨緑江を渡らないという決心を父に語った。父は頼もしげにわたしを見つめて、朝鮮の息子なら当然そうあるべきだとうなずき、朝鮮を知るための勉強を彰徳学校で終えたと考えずに、新しい土地に来てからも祖国と民族を知るために勉強に励むのだ、と慎重な面持ちでいった。
数日後、わたしは撫松第一小学校に編入した。そこでもっとも親しんだのは張蔚華という中国の少年である。彼は撫松で二番目とも三番目ともいわれる財産家の息子であった。彼の家は数十人の私兵をかかえていた。撫松県東崗の朝鮮人参畑はほとんどが彼の家のものだった。張家では毎年、秋になると人参を掘って馬やラバに乗せ、他の地方へ行って売った。人参を売りにいくときは、私兵の行列が四キロほどにもなったという。張蔚華の父親は名だたる財産家だったが、帝国主義を憎み、祖国を愛する良心的な人だった。張蔚華も同様だった。わたしは後日、革命活動中に彼らのおかげでたびたび危機を脱することができた。
朝鮮の子のうちでは高在鳳、高在竜、高在林、高在洙らと親しんだ。
父が撫松を中心に革命活動をくりひろげていたころは、中国の反動軍閥が親日的な傾向を強め朝鮮人愛国者の活動をなにかと妨害していたので、状況はきわめて不利だった。それに、平壌と葡坪での二度にわたるきびしい拷問と脱出時の凍傷がたたって、父の健康はすぐれなかった。しかし、父は革命闘争を少しも緩めなかった。
小南門通りのわが家には「撫林医院」という新しい看板がかけられた。実際のところ、父は他人を治療できる状態ではなかった。むしろ治療を受けなければならない身だった。それにもかかわらず、父はすぐまた遠くへ出かけた。
そのときは、みんなが父を引きとめた。張喆鎬、孔栄、朴振栄など撫松に出入りする独立運動家も今度だけは出かけないようにと哀願した。
しかし、父は決心をひるがえそうとせず、とうとう撫松をあとにした。内島山一帯で活動している独立軍の上層部が行動の統一を欠き、いくつかの派に分かれて勢力争いをしているため、部隊が瓦解するおそれがあるという知らせを届き、父は強い不安に駆けられていたのである。
張喆鎬の指示をうけた人が安図まで父につきそった。彼は二人分の食糧として五升ばかりの栗と味噌一壷を背負い袋に入れ、斧と拳銃一挺をふところに忍ばせて撫松をあとにした。目的地までには数十里の無人の境が横たわっていた。その無人の境を行くときはずいぶん苦労したそうである。夜は野外でたき火をたき、体をおおうものもなく丸太の積み木にもたれてうとうと眠ったが、父のはげしい咳に、同行者はずいぶん気をもんだという。
父は安図から帰ってからも、ひどい咳に悩まれた。それでも数日すると、そんな体で白山学校の認可をうけるために奔走した。
白山学校は、国内で私立学校運動が活発に展開されていたころ、それに歩調を合わせて、撫松地方に移住した朝鮮の亡命者たちが農民の協力を得て設立した、歴史の古い私立学校だった。
初期の白山学校の大きさは、父が通った万景台の順和書堂ほどにすぎなかったという。だから、それは今日の農家の二つの部屋を合わせたほどのものにすぎなかった。ところが、そんなに規模の小さい白山学校でさえ経営難で長年閉校しなければならなかったのである。
わたしたちが撫松に移った当時は、白山学校の復活運動が本格化していた。日帝の言いなりになっていた軍閥当局が学校を認可しようとしないので、父はずいぶん苦労した。
元来、父はどこへ行ってもまず教育問題に関心を向け、各地に学校を設立していた。
父は開校式の前夜、木工工場でつくった机や椅子を張喆鎬と一緒に馬車に積んで白山学校へ行った。
「撫林医院」の看板をかけて医者の仕事をつづけながらも、父の心はいつも学校の方にあったのである。
白山学校の名誉校長を勤め、じかに教鞭をとることはなかったが、父は教育内容や後援事業に関心を向け、学校で演説もすれば課外活動の指導にも努めた。
白山学校で使った『国語読本』は父が執筆したものだった。父は白山学校を復活させてから柳河県三源浦へ行ってきたあと、その教科書を朴起伯(朴凡祚)という人と共同でつくったのだった。父が教材を執筆すると、有志たちがそれを三源浦で印刷し、満州各地に配付した。三源浦には教科書を印刷する正義府管轄下の印刷所があった。石版印刷だったが、できあがった本はりっぱなものだった。満州各地の朝鮮人学校では、ここで印刷した教科書を使って勉強した。
父は撫松で教育問題と関連した会議を何度も開き、安図や樺甸、敦化、長白などに有能な人を送って、朝鮮人が住んでいるところにはどこでも学校や夜学を設けるようにした。長白県十八道溝得英村の育英学校も当時設けられた学校である。のちの朝鮮革命軍の隊員であった「トゥ・ドゥ」のメンバー李済宇と抗日闘士姜燉も当校の出身である。
白山学校の運営が軌道に乗ると、父は再び満州各地を巡って独立運動家と接触した。その時期の活動での中心は、独立運動の統一団結をはかることであった。方向転換の路線を実現するためにある種の単一の党を創立することが日程にのぼっていたときだけに、その基礎となる独立運動隊列の団結をはかるのは、誰もなおざりにできない焦眉の時代的急務であった。父の晩年はすべてそれにささげられたのである。
当時、東北三省に割拠していたさまざまな群小独立運動団体は三つの府に統合され、満州には正義府、新民府、参議府の三府が鼎立する新しい時代が到来していた。しかし、それら三府もそれぞれ勢力圏の拡張をめざして派閥争いに明け暮れ、民衆の指弾をうけていた。
そうした状況のもとで、父は統一団結こそ寸秒を争う歴史的な重大課程であると確信し、その実現をはかって一九二五年八月、撫松に国内外の朝鮮国民会代表と武装団体代表を集めて、独立運動隊列の統一団結をはかる対策を討議し、民族団体連合促進会を結成した。
そのとき父の構想は、この促進会を動かして単一党の創立を早めようというものだったと思う。父は寸秒を惜しみ、連日、以前の何倍もの仕事をした。父はもう余命がいくばくもないと予感していたようであった。
父はその後、しばらくして重態に陥った。
一九二六年春から、父は病床に寝たきりの身となったのである。
父が病に倒れたという知らせを聞いて、各地から多くの客が訪ねてきた。わたしが学校から帰ると、土縁の上にはいつも見慣れない履き物が五、六足置かれてあった。彼らはみな、病気によいという薬を持って父を見舞った。どんなに金に困っている人でも、ほとんどが朝鮮人参の一株は持って訪ねてきた。しかし、病勢が改まった父の体には、薬も効き目がなかった。春は地上の万物に生の息吹をそそぎ、新しい季節を謳歌していたが、悲しいことに、多くの人たちがあれほど待ち望んだ父の健康だけは回復させることができなかった。
わたしも学校へ通う心のゆとりをなくしていた。ある朝、わたしは登校中、父のことが気になって家にもどってきた。
父は、「なぜ学校へ行かないのだ?」ときびしくとがめた。
わたしはなんとも答えられず、溜息をついた。
父は、「学校へ行きなさい。男児がそんなことでは大きなことをやれん・・・」といって、わたしを学校へ行かせた。
ある日、呉東振が張喆鎬と一緒に吉林からやってきた。彼は、撫松会議の方針にそって反日愛国勢力の結集に努めてきたが思いどおりにいかず、苦心の末、相談かたがた見舞いにきたといい、分裂をこととする人たちの行為をののしった。

短気な張喆鎬は、そんなわからず屋たちとは手を切るべきだ、と腹を立てた。
二人の言葉を注意深く聞いていた父は、彼らの手をとって、「いや、それではいけない。骨がおれても統合は必ず実現させなければいけないのだ。統合し、武力をもって敵と戦わずには、独立をとげることができない」と言いふくめた。
彼らが帰ると、父は李朝時代以来たえずくりかえされている党争について話し、そのために国まで滅んだのに、独立運動をするという人たちがいまだに覚醒せず、四分五裂して党争に明け暮れているのだから困ったことだ、と慨嘆した。そして、党争を根絶せずには国の独立も文明開化も不可能だ、党争は国力を弱める根源であり、外部勢力を引き入れる媒介者だ、外部勢力が入ってくれば国は滅びるほかない、おまえたちの代には必ず党争を根こそぎにして団結をとげ、民衆を立ち上がらせなければならない、と強調した。
わたしが学校から帰ると、父は看病しようとするわたしを枕元に座らせて、いろいろな話をしてくれた。そのほとんどは父の生涯の体験談で、教訓的なものが多かった。
そのなかでいまも忘れられないのは、革命家がいだくべき三つの覚悟についての話である。
「革命家はどこにいても、つねに三つの覚悟ができていなければならない。餓死、殴死、凍死、つまり飢え死にする覚悟、なぐり殺される覚悟、凍え死にする覚悟をもって最初にいだいた大志を守りぬくのだ」
わたしは父のこの言葉を深く胸に刻んだ。
友と友情についての父の言葉も教訓的だった。
「人間は困難なときに交わった友を忘れてはいけない。家庭では両親に頼り、門を出れば友に頼れというが、どちらも意味のある言葉だ。生死と苦楽をともにする真の友は事実上、兄弟よりも近しいのだ」
その日、父は友と友情について長時間話した。
・・お父さんは同志を得ることから闘争をはじめた。金や拳銃を手に入れることから独立運動をはじめる人もいるが、お父さんはどこに行っても、すぐれた同志を求めた。すぐれた同志は天から降ったり地から湧いたりするものではない。金や宝石を掘るように努力して自分で見つけ、はぐくまなければならない。だからお父さんは一生涯、朝鮮と満州の広野を足が棒になるほど歩きまわったのだ。お母さんもそれで始終、客の接待に努め、いつも腹をすかして苦労した。
国と民衆を思う真情があれば、りっぱな同志はいくらでも得られる。要は志であり、心構えである。金はなくても志さえ通ずれば、同志になれるのだ。百万の金をもってしても得られない友情を一杯のおこげ湯や一粒のジャガイモで得られるのも、みなそのためである。
お父さんは財産家でもなければ、勢力家でもないが、りっぱな友人をたくさんもっている。それが財産といえるなら、お父さんは財産のなかでも最大の財産を持っているわけだ。
お父さんは同志のためならなにも惜しまなかった。だから、同志たちも命を賭してお父さんを守ってくれた。お父さんがこれまでいろいろな困難にうちかって祖国の解放運動に献身できたのは、同志たちがお父さんに私心のない援助をよせてくれたからだ・・・
父は病床にあっても、懐かしく思い出されるのが友人であるといい、多くのりっぱな同志と交わるよう、重ねて強調した。
「同志のために死ねる人であってこそ、りっぱな同志が得られるのだ」
そのときの父の言葉は、いまもわたしの脳裏に深く焼きついている。
母は何か月ものあいだ寝食を忘れて、病魔との苦しいたたかいをつづける父を父を心をこめて看病した。それはこの世の誰もまねることも、代わってすることもできない涙ぐましいまでの至誠だった。しかし、その超人的な至誠も父を救うことができなかった。
一九二六年六月五日、父は故郷から数百里離れた異国の小さな屋根の下で、亡国の恨みを晴らせず、ついにこの世を去った。
「わたしらが故郷をあとにするときは、独立を果たして一緒に帰ろうといったのに、わたしは行けそうにない。国が独立すれば、君が成柱を先に立たせて故郷へ帰るのだ。志を果たせずに逝くのかと思うと、心が重い。成柱を頼む。成柱を中学まで進ませたかったが、無理なようだ。できることなら、たとえかゆをすすってでも中学までは勉強させてほしい。それから、下の弟たちのことは成柱にまかせればよい」
その日、母に残した父の遺言はこのような話からはじまった。父はいつも持ち歩いた二挺の拳銃を母に手渡し、こう頼んだ。
「わたしが死んだあとでこの拳銃が見つかったらことだから、地中に埋めておき、成柱が大きくなって、たたかいの道に立つとき渡してもらいたい」
そのあと父は、わたしたち三人兄弟に最期の言葉を残した。
「わたしは志をとげずに逝く。だが、おまえたちを信じている。おまえたちはつねに国と民族の体であることを忘れてはいけない。骨が砕け、身が粉になろうとも、必ず国を取りもどすのだ」
わたしは声を上げて泣いた。父の死は、わたしの胸中に渦巻いていた亡国の悲しみをほとばしらせた。
父は生涯、国のためにわが身を裂き骨を削り、その末に世を去った。度重なる残酷な刑と凍傷によって致命的な痛手をうけたときも、屈することなく民衆のなかに入り、同志を訪ね歩いた父だった。力がつきると杖にすがり、ひもじいときは雪をほおばっても後ろをふりかえったり、ためらったりすることなく、いちずに前進をつづけた父だった。
父は生前、どの党派にもくみすることなく、どんな権力も追い求めず、ひたすら国の解放と勤労人民の幸せを願って、ためらいなく身をささげた。父には物欲も私利私欲もなかった。金ができれば子どもたちに飴を買ってやりたいのが人情だが、それを我慢して一銭、二銭とためた金でオルガンを買い、学校に寄贈した。自分のことを考える前に同胞を思い、家庭を思う前に祖国のことを考え、寒風にさらされながら一生を休むことなく歩んだ父だった。人間としても清廉に生き、革命家としても潔白に生きた。
わたしは、父が家庭の暮らし向きのことを話すのを一度も聞いたことがない。わたしは、思想や精神の面で父から譲りうけたものは多いけれども、財物や金銭はなに一つ相続しなかった。いま、わたしの生家に展示されている農具や家具はすべて祖父が残したもので、父から譲られたものではない。
「志遠」の思想、三つの覚悟、同志獲得の思想、二挺の拳銃――これが父から譲りうけた遺産の全部であった。それらはきびしい困難と犠牲を前提にして残された遺産であった。けれども、わたしにとってこれ以上貴い遺産はなかった。
父の葬儀は社会葬としてとりおこなわれた。葬儀の当日は、小南門通りが埋まるほどに弔客が集まった。南北満州の各地と間島から、そして国内から、平素、父を慕っていた大勢の同志や友人、弟子、以前治療をうけた人たちがぞくぞくと撫松にやってきた。撫松県長も金箔香紙の束を持って参列し、父の霊前で焼香し、涙を流した。
父の墓地は、小南門通りから四キロほど離れた頭道松花江のほとりの陽地村に定められた。父は生前、その村をしばしば訪れた。村人たちと語り合ったり病気の治療をしたりしながら、一家親族のように親しく付き合ったのだった。父は没後も、ふだん親しんだ人たちのなかにいたかったに違いない。
その日、小南門通りから陽地村にいたる四キロの道すじは、慟哭の声にみちていた。独立運動家たちは柩輿をになって歩きながら声を上げて泣いた。
撫松地方の朝鮮女性は、父の葬儀の日から十五日ものあいだ頭の白いリボンを取らなかった。
わたしはこうして父を亡くした。一瞬にして父を亡くし、師を失い、指導者を失った。父はわたしにとって生命を与えてくれた肉親であると同時に、幼時からわたしを革命の道へ導いてくれた師であり、指導者であった。父の死はわたしのとって大きな打撃であった。わたしの胸は埋めることのできない喪失によって空虚になった。
あるときは、ひとり川辺に座って遠く祖国の空を眺め、涙を流すこともあった。
思えば、わたしのたいする父の愛情はひとかたならぬものであった。わたしが少し成長してからは、いつも真剣に国と民族の将来について話してくれた父だった。このうえなく厳格でありながらも、はかり知れなく深いのがわたしの父の愛情だった。もはやそのような愛情、そのような指導をうけることも、望むことのできなくなった。
しかし、わたしを悲嘆の淵から立ち上がらせたのは、父のまたとない遺産だった。「志遠」、三つの覚悟、同志獲得、二挺の拳銃・・・
すぐには、なにをすべきか見当のつかない、暗澹とした悲しみのなかでも、わたしはその遺産から力を得、歩むべき道を模索しはじめたのである。