わたしの母
わたしが八道溝の町に足を踏み入れたときは、もう日が暮れていた。不安に駆けられながら百里の道を歩いたわたしだったが、いざ家に着いてみると思わず緊張した。
ところが、母は思いのほか落ち着いて余裕のある表情をしていた。母はわたしを抱きしめ、「お母さんはまだそんなことを一度も経験したことがないのに、おまえは一人で百里の道を行ってきたんだね。さすがに男の子だけのことはあるんだね」といって喜んだ。
わたしは故郷の消息を手短に伝え、父の安否をたずねた。母は声を落として無事だと答え、ほかのことはなにもいわなかった。
わたしは母の顔色を見て、父が一応難を逃れたものの、まだ、すっかり危険が去っていないので人目を忍び、用心をしているのだと気づいた。
わたしは万景台を発つときにもらった旅費をきりつめて買ってきた菓子を弟たちに与えた。そして家族たちと夜通しつもる話をしたいと思った。
ところが、夕食を用意した母はわたしに、ここは敵の監視がきびしいからすぐ発つようにというのである。父がどこにいるともいわずに、お父さんは無事にほかへ行っているから、おまえも行くのだというのだった。平素あんなにやさしくて慈しみ深い母が、わたしの気持にはおかまいなく、きびしい冬のさなかに百里の道を歩いて帰り、それも二年ぶりに会った息子を一晩も泊めずに、その夜のうちにまたほかへ発たせようとするのだった。わたしは呆然とした。弟たちも連れていくようにといわれてやっと、お母さんはどうするつもりですか、とたずねた。
「母さんは新坡に出かけている叔父さんの帰りを待たなくてはならないんだよ。叔父さんが帰ったら家財を整理し、あとかたづけもしなくてはならないし。だから母さんの心配はしないで早く発ちなさい」
母こういった。そして臨江の盧京頭の家を訪ねていくようにといい、誰にも気づかれないようにそっと発つのだと念を押した。それから、宋監督に橇を頼んだ。
宋監督は母の頼みを快く聞き入れた。彼の本名は宋秉徹だったが、まるで工事場監督のように威張りたがったので、八道溝の人たちは本名を呼ばずに彼を宋監督と呼んでいた。
わたしたちは宋監督の世話で橇に乗り、臨江に向けて八道溝を発った。
わたしは一生を革命運動にささげ、数知れぬ離別と出会いを経験したが、このときのような特異な出来事はあとにも先にも一度しかなかった。
万景台からほぼ十五日ものあいだ歩いて帰り、旅装を解くいとまもなく、その夜のうちにまたそこを発たなければならなかったわたしは、母のことが頭にこびりついて離れなかった。
母はやさしく、温和な人だった。父は革命運動にたずさわったせいか、剛毅できびしかった。どちらかというと、あたたかい愛情をそそいでくれたのは母の方である。
わたしが二年前、勉強をしに祖国へ行くことになったとき、わたしを手放すのをあれほど悲しんだ情深い母だった。
万景台の祖母が、虎よりも怖い人だといったほどの父の前では、母もどうしようもなかったのであろう。じつはあのとき、わたしは母が人知れず泣いたと思っている。
母の性分からして、それが息子でなくても、百里の道を歩いてきた十三歳の子が日暮れに家の前を通りかかったとしたら、まず家に呼び入れてご飯を食べさせ、泊めてやったに違いない。
ある年の春、川向こうの厚昌から左足と首すじにできものができて重態の陥った子が、伯父におぶさってわたしの家に来たことがある。家庭の不和で親が離婚し、伯父の家に身を寄せている気の毒な子だった。
診察を終えた父が母に、この子は足を手術すれば当分歩けないだろうから、治るまで家においてやろうといった。母はそれがよいと、さっそく承知した。手術後、毎日一回、蜂蜜に小麦粉とソーダを混ぜた練り薬を傷口に貼ってやるのだったが、母は父の手助けをして、うみで汚れた傷口の手当てをしながらも、いやな顔を見せたことがなかった。
真心をこめて看病したかいがあって、数日後、その子は全快し、家に帰ることになった。
子どもを引き取りにきたその子の伯父が、わたしの父に一円札を一枚差し出し、「治療費を計算すれば何百円だしても惜しくないですが、暮らしが立たないもので、ほんの気持だけです。これでも治療費だと思って、どうかこのお金でお酒でも・・・」といって言葉じりを濁した。
そばにいた母が「なにかと不自由している方に治療費など、そんな心配はしないでください。わたしはかえって、病気のお子さんに食事も満足にしてあげられなくて、心苦しいくらいです」といった。
それでも、その子の伯父は、ぜひお金を受け取ってほしいといってきかなかった。金持ちならいざ知らず、山で松葉をかき集め、それを売って治療費を工面するほかなかったはずの人から一円の金を差し出されて、わたしの両親はすっかり当惑した。
父は母の方をふりかえり、断れば誠意をむげにしりぞけることになるが、どうしたものかと困った顔をした。すると母は「誠意はうけなくてはいけません」というと、すぐ町にでかけてカナキンを五尺買ってきた。そしてそれをその子の手に持たせて、もうすぐ端午だから、帰ったら服をこしらえてもらうのよ、といった。当時、カナキン一尺が三十五銭だったから、患者がだした一円に七十五銭を足して、五尺の布地を買ってやったことになる。
母は暮らしが貧しくても、打算や欲というものを知らなかった。
「人間はお金がなくて生きられないのではなくて、寿命が足りなくて生きられないのだ」「お金はあってもなくなかったり、なくてもまたできたりするものだ」
これが母の信条だった。
母はこのように心が清く、温厚な人柄だった。
たまに父がなにか気に障って怒るようなことがあっても、「ごめんなさい」「気をつけます」と謝り、口答えをすることがなかった。わたしたちがいたずらをして衣服を汚したり、物をこわしたり、家の中で騒いだりして、祖母からなぜ子どもを叱らないのかといわれても、母は「そんなことで叱ることはありません」と答えるだけだった。
革命運動にたずさわる夫を持ったのだから仕方がなかったにしても、たんに女性として見れば、母の生涯は力に余る苦労のしどおしだった。母は父とむつまじく暮らした日があまりなかった。父が独立運動に奔走していたので、おのずとそういうことになった。父が江東で教師をしていたころ、それでもおよそ一年間は楽しく暮らしたといえるだろうか。そして八道溝に移って、一、二年父と一緒に暮らしたのがせいぜいというところではなかったろうか。
父が下獄し、出獄後は病気をわずらい、また警察の監視をうけながら転々と居所を変え、死去したあとはわたしまで革命運動で家をあけたのだから、母は一家だんらんの楽しみを味わえず、一生気苦労がたえなかった。
万景台にいたときも、母は十二人もの大家族の総領の嫁としてなにかとせわしかった。夫とその親に仕えるのはいうまでもなく、掃除、食事のあとかたづけ、洗濯、機織りなどで休むまがなく、昼は終日野良で働いたので、頭を上げて空を仰ぐゆとりもなかった。封建色が濃く、礼儀作法のやかましかったあのころ、大家族の総領の嫁としての務めを果たすのは容易でなかった。まれにご飯を炊いても、母はせいぜいおこげを食べ、かゆを炊けば、いちばん薄いかゆをすすらなければならなかった。
仕事がきつくてやりきれないと、母は叔母と連れ立って礼拝堂へ行った。松山はいま軍事大学のあるところで、そこに長老教系の礼拝堂があった。南里とその周辺にはキリスト教信者がかなりいた。現世では人間らしい生活ができないので、キリストの教えを守り、せめて来世でも「天国」に行きたいと思うのだった。
大人が礼拝堂に行くときは、子どもたちもついていった。信者を増やそうと、礼拝堂ではときどき子どもたちに飴やノートをくれた。子どもたちはそれをもらう楽しみで、日曜日には連れ立って松山に出かけた。
わたしも最初は好奇心に駆けられて、友達と一緒にときどき松山へ行った。しかし、子どもの気持に合わない厳粛な儀式や牧師の単調な説教に嫌気がさしてからは、礼拝堂にあまり出入りしなかった。
ある日曜日、わたしは祖母がつくった豆のおこしを食べながら父にいった。
「お父さん、ぼく、きょうは礼拝堂へ行かないよ。お祈りするのを見ていてもつまらないもん」
父は、まだがんぜないわたしを前に座らせてこういった。
「行く、行かないはおもあえの勝手だ。実際のところ礼拝堂にはなにもないのだから、行かなくてもいい。おまえはキリストよりも自分の国を信じ、自分の国の人たちを信じなければいかん。そして、国のためにつくそうと考えなくてはいかんのだ」
わたしは父の話を聞いてからは、礼拝堂へほとんど行かなかった。チルゴルで学校へ通ったときも、礼拝堂に行かないと先生に叱られたが、わたしは一度も行かなかった。わたしは、キリストの福音が朝鮮人民の悲劇とはあまりにも縁遠いものだと思った。キリストの教理には人道主義的な側面も多分にあったが、民族の運命を憂えて思い悩んでいたわたしは、救国へと呼びかける歴史の叫びにいっそう耳を傾けたのである。
思想からいえば、父も無心論者だった。しかし、ミッションの崇実中学校に通ったので、父の周辺には信者が多く、したがってわたしも信者との付き合いが多かった。わたしが成長過程でキリスト教の影響を多くうけたのではないか、と質問する人がいる。わたしは宗教の影響はうけなかったが、キリスト教信者から人間的に多くの援助をうけた。そして、彼らに思想的影響もおよぼしたと思う。
全世界の人が平和でむずまじく暮らすことを願うキリスト教の精神と、人間的に自主的な生き方を主張するわたしの思想とは、矛盾しないものとわたしは考えている。
わたしは母が礼拝堂へ行くときだけ松山へ出かけた。母は礼拝堂に通いながらも、キリストを信じなかった。
ある日、わたしは母にそっとたずねた。
「お母さん、お母さんは神様がほんとうにいると思って礼拝堂へ行くの?」
母は笑って、頭を横に振った。
「なにかがあって行っているんではないの。死んだあとで天国に行っても仕方がないじゃない。ほんとうはね、あんまり骨がおれるので、ちょっと骨休みがしたくて通ってるのよ」
その言葉を聞くと、母が気の毒になり、いっそう好きになった。母は礼拝堂で、祈祷の最中にも疲労のため居眠りをした。そして牧師が最後になにかいい、みなが「アーメン」と唱えて立ち上がると目をさますのだった。「アーメン」の声がしても目をさまさないときは、わたしがそっとこづいて、母に祈祷が終わったことを知らせた。
ある日の夕方、わたしは子どもたちと一緒に万景台の裏手の峠にある葬具小屋の前を通りすぎた。村で葬式のときに使う葬具をしまっておく小屋だった。幼いころ、わたしたちはその葬具小屋がとてもこわかった。
その前を通りすぎるとき、一人の子が「あっ、あそこに幽霊が出てくる」と叫んだ。わたしたちは小屋からほんとうになにが出てくるように思えて、どっと逃げ出した。履き物が脱げるのも気づかなかった。
その夜はこわくて家にも帰らず、みな友達の家に泊まり、朝になって家へ帰る途中、履き物を見つけてはいた。家に帰ってそのことを話すと、母はこういった。
「そんなところを通るときは歌をうたうもんよ。歌をうたったら、向こうの方がこわがって出てこないからね」
歌をうたえば恐怖心が消えるだろうと思って、そう教えたのだろう。そんなことがあってから、わたしは葬具小屋の前を通るときは、いつも歌をうたったものである。
平素はあれほど温順で人のよい母だったが、日帝にたいしては妥協を知らず、じつに気丈だった。
烽火里で父を逮捕した日帝警察が、数時間後、わたしの家を襲って捜索したときのことである。彼らが秘密文書を探し出そうと、家の中をひっかきまわしはじめると、母は激怒して、「見たかったら見るがいい」と叫び、衣服を投げつけたり引き裂いたりして恐ろしい見幕で立ち向かった。彼は気をそがれて、すごすごと立ち去った。わたしの母はそんな母だった。
その夜、鴨緑江の岸辺では吹雪がはげしく吹き荒れた。
樹林を根こそぎ吹き飛ばさんばかりのすさまじい風の音にまじって、野獣の鳴き声が聞こえてくる深夜の暗闇は、わたしの心の亡国の傷跡をいっそううずかせた。
わたしはおびえる弟たちを抱きしめ、国境の暗い氷の上を橇に乗っていきながら、革命の道は平坦な道でなく、母の愛も平凡な愛ではないと思った。
わたしたち三人は寒くて布団をかぶり、だただたふるえた。暗い夜だったので、弟たちはおびえてわたしにしがみついた。
わたしたちは吾仇俳という朝鮮側の岸辺の村で一晩泊まり、翌日臨江に到着した。
そこで盧京頭に会ってみると、彼は以前わたしたちが臨江にいたとき住居を世話してくれ、しばしば父を訪れて国連を論じた顔見知りの宿屋の主人だった。彼はわたしたち兄弟を大事な客としてもてなしてくれた。
その家は七間からなり、背中合わせに二部屋ずつ仕切れられた間取りになっていたが、わたしたちは閑静な一番目の部屋に案内された。台所の反対側には客室が三つあった。それらの部屋はいつも泊り客でにぎわった。満州から臨江をへて朝鮮に行く人や朝鮮から臨江をへて満州に行く人は、おおかた子の宿屋に泊まった。盧京頭の家は独立運動家の宿屋所のようなものだった。
盧京頭は反日思想に徹した民族主義者で、性格は温和だったが、主張を曲げず剛直なところがあった。彼は宿屋を営み、そこからあがる収益の一部を割いて独立運動家を援助していた。泊り客を相手にその日暮らしをしていた彼は、そこで労働をしていたといえよう。彼がどのようないきさつで、臨江に腰を落ち着けるようになったかはつまびらかでない。うわさによれば、盧京頭は独立運動の資金を工面するためタングステン鉱を運び出した事件に関係して、一時、丹東地方に身を避け、ほとぼりがさめるのを待って、安全な避難所を求めて臨江に移ってきたという。
彼の本籍は大同郡古平面下里だった。下里は順和江をはさんでわたしの郷里南里と隣合っている村である。元来、篤農だった彼は、わたしの父と知り合ってから独立運動に奔走するようになったという。それで、百姓をやめて行商をやっているのではないかと家族に憎まれたともいう。彼は引き潮のたびに順和江を渡って南里の父に会いにきた。そんな縁があってか、彼はわたしたちにいっさいひもじい思いをさせず、親身になって保護してくれた。
わたしとわたしの家族にとって、盧京頭は大恩人だった。一か月近くのあいだ、彼は自分たちのものを惜しみなく使ってわたしたちの世話をやきながらもいやな顔一つ見せず、わたしの前ではいつもにこにこしていた。あるとき、自腹を切って撫松にいる父を市外電話で呼び出してくれた。おかげでわたしは生まれてはじめて電話をかけてみた。そのとき父が、子どもたちの声を聞きたいというので、わたしたち兄弟は、母につづいて順に電話口に出たのだった。
母は約束の日に亨権叔父をともなって臨江にやってきた。そして来るなり、街の見物をしようといってわたしたちを外へ連れ出し、中華料理店に入った。母はわたしたちに餃子を一皿ずつ注文してくれて、いそいそなことをたずねた。
わたしは最初、一か月近くも他人にあずけた子どものことを思ってご馳走をしてくれるのだろうと思ったのだが、実際は、そのあいだのわたしたちの様子を水入らずで聞きたくて連れ出したのだとわかった。
その間、宿屋に不審な人があらされておまえたちのことをたずねたことはないか、よそへ遊びにいったことはないか、おまえたちが盧京頭さんの家に来ていることを知っている人は誰々か、などとこまごまとたずねた。そして、どこへ行っても決して金亨稷の子だといってはいけない、ほかへ移るまで万事に気をつけるようにと、くりかえし念を押した。
臨江に来てからも、母はわたしたちのために安心して眠れなかった。真夜中に外で小さな物音がしても、寝床から起き上がって息を殺し、耳をすませた。
子どもたちに災いがふりかかってはと、片時も心を安めることのできない母が、わたしたちを臨江に送り出すときは、どうしてあんなに断固とした態度をとることができたのであろうか。
思えば、それは真の母性愛、革命的な愛情だった。
世の中で母の愛情ほどあたたかく、真実で、変わりのない愛情はいないであろう。叱っても鞭で打っても痛くないのが母の愛情であり、子どものためなら空の星でも取ろうとするのが母の愛情である。それは代価を求めない。
いまもあのころの母の面影が、ときどきわたしの夢に浮かぶ。