父と朝鮮国民会

父は生涯「志遠」を座右の銘にしていた。
家庭はもちろん、順和学校や明新学校など、いたるところに「志遠」の二字を大きく筆で書いて貼り出していた。
いまでも父の筆跡がいくらか残っているが、父は筆字が上手だった。
当時は書道がもてはやされて、名士や名筆の書を手に入れ、掛け軸や額にしたり屏風をつくったりしては自慢にした。わたしもまだ物心がつかないときは、父のそれをそのような一般的な書だと思っていた。父はそれに表具もせずに、よく目のつくところに貼った。
わたしが物心がつくと、父はわたしに国を愛するよう教え、国を愛するためには大志をいだかなければならないと語った。
父親がわが子に遠大な志をいだけと教えたからといって、何も不思議なことはない。何事であれ、高い理想と抱負をいだき、ねばり強く努力しなければ成功はおぼつかないものだ。
しかし「志遠」の思想は、個人の栄達や身を立てて名をあげることをめざした生俗的な人生訓ではない。それは祖国と民族のためにたたかうことに真の生きがいと幸福を求める革命的人生観であり、代をついでたたかっても必ず国の解放をかちとるべきだという不屈の革命精神である。
父はなぜ大志をいだかなければならないのかということについて、多くのことを語ってくれた。それを一言で表現すると、朝鮮人民の反日闘争史といえた。
・・朝鮮はもともと強大な国だった。武芸が発達して戦いに敗れたことがほとんどなく、早くから文化が開けて、その光が海を渡って日本にもおよんだ。ところが李朝五百年の腐敗した政治のために、それほど栄えた国が一朝にして滅んでしまった。
おまえがまだ生まれていなかったとき、日本人は銃剣でわが国を占領してしまった。日本に国権を売り渡した逆臣を「乙巳五賊」といっている。しかし、逆臣たちも朝鮮の魂だけは売り渡せなかった。
養兵は槍を取って「倭滅復国」を絶叫した。独立軍はわが国を侵略した敵を火縄銃で撃ち倒した。ときには各地で蜂起した人民が万歳を叫び、石つぶてで敵を倒し、人びとはみな大声で人類の良心と世界の正義に訴えた。
対馬に捕われていった崔益鉉は敵の与える食べ物を拒んで食を断ち、国に殉じた。李儁は帝国主義列強の代表たちの面前で割腹してわが民族の真の独立精神を見せた。安重根はハルビン駅頭で伊藤博文を射殺して独立万歳を叫び、朝鮮人の気概を表した。
還暦がすぎた姜宇奎老は斎藤総督に爆弾を投げた。そして李在明は、亡国の恨みを晴らそうと李完用を刺している。
関泳煥、李範晋、洪範植らの愛国忠臣は、国権守衛を訴えて自決した。
いっとき朝鮮民族は国債補償運動という涙ぐましい運動までくりぎろげた。国債というのは日露戦争後、日本から借りた一千三百万円の借金のことだ。この借金を返済するため全国の男子がタバコをやめた。高宗皇帝までが禁煙してその運動に合流した。女性たちはおかず代を切りつめ、装身具類を拠出した。結納品を差し出す娘もいた。財産家の童僕や針女、餅売り、もやし売り、わらじ売りたちも国の負債を返すのだと、汗のしみた小銭を惜しみなく差し出した。
しかし、わが国は独立を保つことができなかった。
栗は、全国の人民を国を取りもどそうという一つの心に結びつけて奮起させ、敵を撃ち退ける力を養うことだ。決心さえすれば力を養うことができ、力を養えば強敵もゆうに退けることができる。
全国の人民を覚醒させ、決起させてこそ、国権を回復することができるのだが、それは短時日では成就できない。だから遠大な志をいだかなければならないのだ・・・
父はわたしの手を取って万景峰に登るようになってから、しばしばこんな話をしてくれた。父の教えは愛国主義思想につらぬかれていた。
いつだったか、父は祖父母の前でこんなことをいったことがある。
「国の独立をかちとれないようでは、生きていてもなんにもなりません。わたしは体が引き裂かれて粉になろうとも、日本人とたたかって勝たなければなりません。わたしがたたかいに倒れたら息子がやり、息子がたたかって果たせなかったら孫がたたかってでもわたしたちは必ず国の独立をなしとげなければならないのです」
後日、三、四年あればけりがつくと思った抗日武装戦争が長期戦に移行したときに、わたしは父の言葉を想起したし、解放後、北と南が分断されて相反する道を歩むようになった民族分裂の長年の悲劇を体験しながら、その言葉にこもる深い意味にあらためて粛然とならざるをえなかった。
その言葉は、父のいだいていた「志遠」の思想と信念、祖国解放の思想と志向であったといえる。
あれほど暮らしが苦しかったとき、父がなみならぬ決心をいだいて崇実中学校に入学したのも、「志遠」の志を成就するためだった。
甲午(一八九四年)改革後、乙未(一九〇五年)条約が締結されるまでの十年余は、内政改革の波に乗って、遅ればせながらわが国に近代的教育制度を樹立するための力が傾けられていた時期だった。新教育の峰火をかかげてソウルで培材学堂、梨花学堂、育英公院という学校が設立され、西洋の新しい文物を教えていたころ、アメリカ宣教師が伝道活動の一環として西朝鮮地方に建てたのが崇実中学校である。
崇実中学校は全国から生徒を募集した。新学問を志向する多くの青年がこの学校を志望した。歴史、代数、幾何、物理、衛生学、生理学、体育、音楽といった崇実中学校の近代的な科目は、国の後進性を克服し、新しい世界の潮流に足並みをそろえようと願う青年たちの関心を引きつけた。
父も新学問を学ぶためにこの学校に通ったのだといっていた。四書五経など書堂で教える難解な古い学問は父の気に入らなかった。

宣教師の教育目的とは裏腹に、崇実中学校は後日、独立運動線上で大きな役割を果たした著名な愛国人士を輩出した。上海臨時政府議政院初代副議長をへて歴任した孫貞道もこの学校の出身であり、臨時政府末期の国務議員として活動した車利錫も同校の卒業生であり、すぐれた愛国詩人尹東柱も同校に通い中退した人である。
康良煜先生も崇実学校の専門部に通った。当時はこの専門部を崇実専門学校と呼んでいた。崇実中学校は崇実学校付属の中等部である。崇実学校から反日独立運動家が輩出したので、日本人はこの学校を排日思想の策源地だといった。
「学問をしても朝鮮のために学び、技術を学んでも朝鮮のために学び、天を信じても朝鮮の天を信じるべきだ」
父はこのような思想で学友を説き、愛国的な青年学生を結集した。
父の指導で崇実中学校には読書会と一心親睦会が組織された。これらの団体は学生たちを反日思想で教育するかたわら、平譲とその周辺一帯で積極的な大衆啓蒙活動をおこない、一九一二年十二月には、校内で学校当局の非道な虐待と搾取に講義して同盟休校を起こした。
父は勉強をしながら学期末休暇には安州、江東、順安、義州など平安南北道と黄海道一帯をまわり、大衆の啓蒙と同志の獲得に努めた。
父が崇実中学校在学中に得た最大の収穫は、生死をともにしうる同志を数多く獲得したことだといえる。
崇実中学校の同窓会のなかには父と人間的に親しく付き合い、国と民族の運命について志を同じくする人が多かった。彼らは度量が大きく、識見が広く、人格がすぐれた人望の高い青年先覚者たちであった。
それらの同窓会のうち、平譲の人としては李輔植がいる。彼は読書会にも一心親睦会にも関係し、後日、朝鮮国民会を組織するためにも大きく寄与し、三・一人民蜂起のさいも大きな役割を果たした。
わたしたちが烽火里に住んでいたとき、彼は父に会いにしばしば明新学校へやってきた。
平安北道出身の同窓生のうちでは、白世彬(白永茂)という枇●(山に見)の人が父と親しく付き合った。父が平安北道に行けば、彼が主に道案内をした。彼は朝鮮国民会の国外連絡員だった。一九六〇年十二月に南朝鮮で民族自主統一中央協議会が結成されたが、白世彬はその委員として活動したという。
朴仁寛は崇実中学校時代に父と同じ寄宿舎にいた人である。入学当初、しばらくのあいだは父も寄宿舎にいた。
一九一七年春、朴仁寛は黄海道殷栗で光宣学校の教師を勤め、朝鮮国民会に加入した。彼は松禾、載寧、海州などを巡りながら同志を糾合中、逮捕されて一年間海州監獄で苦労をした。彼が光宣学校の教師を勤めていたとき、子どもたちの書いた『半島とわれわれとの関係』という作文がいまも殷栗事績館に展示されている。その作文を読めば、朝鮮国民会の影響下にあった学校の生徒の思想動向や精神世界の一端をかいま見ることができる。
独立運動家のうち、父ともっとも俯角親交を結んでいた人は呉東振だった。
彼がわたしの家にしばしば出入りしたのも、父が崇実中学校に通っていたころである。呉東振は当時、安昌浩が設立した平譲大成学校に通っていた。たんなる人情関係を超えた思想のうちでの交際だったので、二人の付き合いは最初からひたむきで、熱っぽかった。呉東振が父の思想にはじめて共鳴したのは、一九一〇年の春、慶上谷の兵隊広場(李朝末期の兵営の前にあった連兵場)で開かれた運動会のときであったという。
この運動会には平譲、博州、江西、永柔などから一万余の青年学生が参加した。
父はその日、運動会が終わったあとの弁論大会で、わが国が文明国になるには日本の文明を受け入れるべきだという一部学生の主張に対抗して、わが国の近代化はわれわれの力で実現するべきだという趣旨の演説をし、聴衆の耳目を一身に集めた。その演説を聞いた聴衆のなかに、後日の正義府司令呉東振がいたのである。当時を回想するたびに呉東振は、「あの日の金先生の演説はわたしに大きな刺激を与えた」と感慨深く述懐したものだ。
彼は一九一三年ごろから貿易商(卸売り商)というふれこみで、ソウル、平譲、新義州など国内の主要都市と中国を往来し、そのつど父を訪ねて独立運動の前途を語り合った。
最初、わたしは呉東振をたんに善良な商人だとばかり思っていた。だが後日、八道溝と撫松に移ったときはじめて、彼がたいへんな独立運動家だと言うことを知った。
そのころ、松庵呉東振といえば知らない人がないほど、彼は広く名を知られていた。財産やバックを見ると、困難な革命運動家などしなくても暮らしていける人だったが、彼は銃を取って日帝と戦ったのである。
呉東振はわたしの父をたいへん尊敬し、深い友情をいだいていた。義州にあるわたしの家には多くの人が出入りした。それで離れはそっくり来客の宿所にあっていた。客があまりにも多いので、そこへ女中をおいて客をもてなした。しかし、わたしの父だけは離れではなく母屋に請じ入れ、彼の夫人が手ずから台所で食事をこしらえたという。
あるとき、呉東振が夫人同伴でわたしの家を訪れたことがあった。そのとき祖母は、記念として真鍮の食器を贈った。
わたしが呉東振のことをくわしく書くのは、彼が父の親友であり同志であったということもあるが、わたしの青年時代と深いかかわりがあったからである。わたしは押さないころから彼に格別な親しみを覚えていた。わたしが吉林で勉強していたころ、呉東振は日帝に逮捕された。ずっとあとになって、わたしが反日人民遊撃隊の組織をはかって間島一円をまわっていた一九三二年三月の初め、彼は新義州地方法院で裁判にかけられた。ガンジーの予審記録文書が二万五千ページになると聞いて驚いたものだったが、呉東振のそれは、なんと三万五千ページ、六十四策にもなるという。
裁判当日、数千人の傍観者が法廷におしかけ、午前の開廷が予定されていた裁判は午後一時すぎになってやっと開かれた。呉東振をいっさい拒否し、裁判長席に駆け上がって朝鮮独立万歳を叫び、法廷を揺がせた。
狼狽した日本の裁判官はあわてて公判を中断し、被告が欠席した法廷で早々に判決を下した。上訴審で終身刑を言い渡されたが、呉東振はついに解放の日を迎えることができず獄死している。
われわれが遊撃隊の組織に向けて困難なたたかいをくりひろげていたころ、彼の高潔な節操と闘志をうかがわせる公判の記事と、平譲監獄に護送される編み笠をかぶった彼の写真が新聞に載った。わたしはその写真を見て、呉東振の不屈の愛国心を感慨深く回顧したものである。
このように、崇実中学校時代に父と親交を結んだ人たちは少なからず不屈の革命家に成長し、後日、朝鮮国民会の根幹となった。

崇実中学校を中退したあとも、父は万景台の順和学校と江東の明新学校で教鞭をとり、次代の教育に力を入れる一方、同志を集めるために心血をそそいだ。父が崇実中学校を中退したのは、革命活動の舞台を広げ、本格的な闘争をおこなうためだったという。
父は一九一六年に休暇を利用して間島に行ってきた。どういう線をたどったのかはわからないが、間島をへて上海に行き、孫文の国民革命派とも連係を結んだ。
父は孫文を中国ブルジョア民主主義革命の先駆者として高く評価していた。父は、中国で男が弁髪を切り、毎週一日休む制度が実施されたのも、ブルジョア改革派が尽力した結果だといった。
父はとくに、孫文が中国革命同盟会の綱領としてうちだした民族、民権、民生の三民主義と五・四運動の影響をうけて新たに提示した連ソ、容共、労農援助の三大政策を称賛し、彼を度量が大きく、意志が強く、先見の明がある革命家だと評価した。しかし、孫文が中華民国の建国後、共和政治制度の樹立と清国皇帝の退位を条件に、袁世凱に総統の地位を譲ったのは失策だったと指摘している。
わたしは幼いころ、父が朝鮮のブルジョア改革運動について語るのもたびたび聞いた。父は金玉均が指導した甲申(一八八四年)政変が「三日天下」に終わったことをたいへん残念がり、開化党の革新政綱のうち、人権平等、門閥廃止、人材登用、清国にたいする従属関係の廃絶を暗示した独立思想などは、すべて進歩的なものだったと評価した。
わたしは父の話を聞いて、金玉均をすぐれた人物だと思い、彼の改革運動が失敗しなかったら、朝鮮の近代史が変わっていたのではなかろうかと思った。
われわれが金玉均の改革運動と政綱の制約性に注意を向け、それを主体的な観点から分析したのはのちのことである。
われわれに朝鮮史を教えた先生は、ほとんどが金玉均を親日派と決めつけていた。解放後、わが国の学界でも長いあいだ、金玉均を親日派扱いした。彼が政変を準備するさい日本人の援助をうけたことが親日の証拠とされた。だが、わたしはそれを公正な評価とはみなかった。
それでわたしは歴史学者に、もちろん金玉均の改革運動で人民大衆との連係に関心を払わなかったのは過ちである、しかし、日本の力に依拠したということで親日と評価しては虚無主義に陥る、彼が日本の力を利用したのは親日的な改革をするためではなく、当時の力関係を綿密に検討したうえで、それを開化党に有利に変えるためだった、当時としてはやむをえない戦術だった、と指摘した。
父は、金玉均の政変が「三日天下」に終わった主因の一つは、改革派が人民の力を信じようとせず、もっぱら宮廷内部の勢力を頼りにしたためだとして、彼らの失敗から教訓を汲みとるべきだと語った。
父が間島と上海に行ってきたのは、それまでうわさにしか聞けなかった海外独立運動の実態を確かめ、新しい同志を獲得して、今後の活動方針を立てるためだったと思う。
世界的に見て、当時は植民地民族解放闘争にかんする問題があまり成熟していないときであった。それらの国で独立運動の方式や方法はまだ明らかでなかった。
父が間島と上海に行ったとき、中国革命は軍閥の蠢動と帝国主義列強の干渉によって一進一退の深刻な紆余曲折をへていた。中国革命でも基本的な障害はアメリカ、イギリス、日本などの外部勢力であった。このような事態にもかかわらず、海外に亡命した少なからぬ独立運動家は帝国主義者にたいする幻想にとらわれ、どの大国の力を借りるべきかといった空理空論にふけっていた。
父は間島の実態を見て、朝鮮の独立運動は朝鮮人の力によって達成すべきであるという信念をいっそうかたくした。間島から帰った父は、大衆啓蒙と同志糾合のために寝食を忘れて奔走した。
それは、わたしたちが万景台から江東郡烽火里に転居したあとからだった。父は万景台にいたころのように、昼は明新学校で教え、夜は夜学で大衆啓蒙活動をおこなうなどして、夜遅く帰宅した。
わたしも父に原稿を書いてもらって、ある学芸会で反日演説をしたことがある。
父はそのころ、革命的な詩や歌をたくさんつくって子どもたちに教えた。
大勢の独立運動家が烽火里に父を訪ねた。父も同志たちを訪ねて、しばしば平安南北道や黄海道一帯をまわった。そんななかで中核が育成され、大衆的基盤がきずかれていった。
このような準備にもとづいて、父は張日●(火に奐)、裴敏洙、白世彬など愛国的な独立運動家とともに一九一七年三月二十三日、平譲学堂谷の李輔植の家で朝鮮国民会を結成した。朝鮮国民会に参加した青年闘士たちは指を切って、「朝鮮独立」「決死」を血書した。
朝鮮国民会は、全朝鮮民族が一致団結して朝鮮人自身の力で国の独立を成就し、真の文明国家を樹立することを目的とする秘密結社で、三・一人民蜂起を前後した時期、朝鮮の愛国者たちが結成した国内外の組織のうちでもっとも規模の大きい反日地下革命組織の一つであった。
一九一七年といえば、国内に秘密結社がほとんどないときである。「韓日併合」後に組織された独立義軍部や大韓光復団、朝鮮国権回復団のような団体は、日帝の弾圧にあって、そのころ残らず解散させられていた。地下運動をして発覚すれば容赦なくつかまる時期だったので、よほどの決心がなくては、そんな活動に参加することなど思いもよらないことだった。志のある人も国内ではどうしようもなく海外へ亡命し、あれこれの反日団体を結成する程度だった。そんな勇気もない人は朝鮮国内で総督府の許可をうけ、かれらの忌諱にふれない程度の消極的な活動をしていた。
朝鮮国民会はそんなときに誕生したのである。
朝鮮国民会は反帝・自主の立場に徹した革命組織であった。
朝鮮国民会の趣旨書は、将来欧米が東洋に勢力を扶植し、日本がそれと覇を争う時期が到来するのは必至である、その機会に朝鮮人自身の力で朝鮮独立の目的を達成するため、同志の結束をはかり、その準備を進めるべきである、としている。
趣旨書を通してわかるように、朝鮮国民会は外部勢力に期待をかける人たちとは違って、朝鮮の独立は朝鮮人自身の力で成就すべきであるという自主的な立場をとっていた。
朝鮮国民会は間島に同志を派遣して、当地を独立運動の策源地にする遠大な計画も立てた。
朝鮮国民会の組織はきわめて緻密であった。朝鮮国民会には準備のできた点検ずみの愛国者だけを厳選して受け入れ、縦の組織体系をもち、会員相互のあいだでも暗号を使った。秘密文書も暗号で作成された。朝鮮国民会は毎年、崇実中学校の新学年度の最初の登校日に、定期的に会員の会合をもつことにした。朝鮮国民会は、その後組織された学校契、碑石契、郷土契といった合法的外郭団体でしっかり偽装した。そして傘下に各区域長をおき、海外人士との連係を保つため、北京と丹東に連絡員を配置した。
朝鮮国民会は強固な大衆的基盤の上に立った組織であった。朝鮮国民会には労働者、農民、教師、学生、軍人(独立軍)、商人、宗教者、手工業者など各階層が参加し、その組織は国内はもとより中国の北京、上海、吉林、撫松、臨江、長白、柳河、寛甸、丹東、樺甸、興京など国外にも広く伸びていた。

李寛麟は朝鮮国民会の会員であるクラスメートと一緒に面会に来たのだった。封建色の濃かったそのころ、若い女が監獄、それも思想犯を訪ねるというのは並大抵のことでなかった。監獄に出入りしたと知られたら、嫁にも行けない世の中だった。そんなときに、モダンガールが思想犯に面会に来たので、看守も驚いて彼女に慎重な態度をとった。李寛麟は明るい表情で父と母を慰めた。
そのとき監獄へ行って父に会ったのは、わたしにとっては一大事件だった。わたしを連れていった母の気持も理解できた。父の体の傷跡は、悪魔のような日本帝国主義の存在を肌で感じさせた。わたしは父の傷跡から、世界の多くの政治家や歴史家が日本帝国主義について分析し評価したよりもはるかに生なましい、たしかなイメージを得た。
そのときまで、わたしは軍隊や警察からそれほど乱暴をされたことがなかった。万景台に戸口調査や清潔検査に来た日本の警官が、言いがかりをつけて障子紙を鞭で突き破り、障子戸を釜にたたきつけて蓋を割ったりしたのは見たことはあったが、罪科のない人の体に負わせたそんなむごい傷は見たことがなかったのである。
その傷跡は抗日革命闘争のあいだ、ずっとわたしの脳裏から離れなかった。そのときの面会でうけた衝撃はいまもわたしの心に大きな痕跡を残している。
父は一九一八年秋、刑期を終えて出獄した。亨禄叔父が祖父と一緒に担架をかついで監獄に行き、村人たちは松山里から万景台におれる道の入口で父を待った。
めった打ちにされて体じゅう傷だらけになっていた父は、かろうじて足を運び、監獄の門を出てきた。
その姿を見た祖父は歯ぎしりし、父に、早く担架に乗るようにといった。
しかし父は、「自分で歩いていきます。命があるかぎり、どうして敵の前で担架に乗っていけましょうか。それみよがしに自分の足で歩いていきます」といって、毅然と足を踏み出した。
家に帰った父は、叔父たちを前に座らせてこう語った。
「わたしは監獄で、水でももっと飲んでもきっと生きて出獄し、あくまでたたかおうと決心した。世の中でいちばんあくどいのが日帝だというのに、そんな奴らを放っておくわけにいかないではないか。亨禄や亨権も日帝とたたかうんだ。死んでも仕返しをしなくてはいけない」
わたしは父の言葉を聞きながら、将来、わたしも父のように日本帝国主義者と命をかけてたたかおうと心に誓った。
父は病床にいても本を読んだ。
父はしばらくのあいだ、眼病をよく治すという大おじの金承鉉の家出保養をしながら、監獄ではじめた医学の勉強をつづけた。その家から父はりっぱな医書をたくさんもらってきた。父は崇実中学校にかよっていたときからその家で医術を教わり、医書を熱心に読んだ。
父が表向きの職業を教師から医師に変える決心をしたのも、おそらく獄中にいたときだったと思う。
父は健康が回復する前に、平安北道にむけて旅立った。破壊された朝鮮国民会の組織を立て直すためだった。
祖父は、一度決心したことはあくまでやりとおすのだ、と父を励ました。
父は故郷を発つ前に『南山の青松』という詩を残した。それは、体が引き裂かれ粉になろうとも代をついで屈せずにたたかい、三千里錦繍江山(朝鮮の美称)に独立の新春をもたらそうという父の誓いを詠んだのである。